みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

息のあるものはみな

2012年12月31日 | 詩篇
詩篇150篇


 2012年が終わろうとしています。
 人には区切りやけじめが必要なのだ、ということを年の終わりに改めて思います。「今年最後の礼拝」「今年最後のウォーキング(気持ちがよかったです!)」「今年最後の食事?」…。そして「今年初めての礼拝」「今年初めてのウォーキング」…と、明日は言うのですね。

 すでにご覧いただいていると思いますが、ご愛読いただいています「みことばの光」の表紙も、1月号からは新しいものへと変更になります。今までの表紙に愛着を感じておられる方にとっては「ショック」だと思います。私も寂しさを覚えます。 201212
 サイズについても、一回り大きくなってよかったという声も、聖書に挟めないので困ったという声も聞かれます。まずはお使いいただき、なじんでいただきたいと願っております。ご意見もお聞かせください。

 詩篇150篇は、146篇から続く「ハレルヤ詩篇」の締めくくりであるとともに、詩篇全体の結びの賛美であり、「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ」との呼びかけで、詩篇が終わっています。この詩篇には「神をほめたたえよ」がちりばめられています。それは、恵みによって神の民とされた者たちの生活のかたちを表わしていると思うのです。朝から夕に至るまで、主をほめたたえることで一日が始まり、一日が終わる。その日々が積み重なって主をほめたたえて年を送り、主をほめたたえて年を迎える者となったということは、幸せだと思います。

 主にあって、よき新年をお迎えください。





過ぎ去ることのない定め

2012年12月29日 | 詩篇
詩篇148篇

 
 この詩篇を声を出して読みました。

 ここでは、天にあるすべてのものから始まり、地にあるすべてのものに、目で見えるもののすべて、見えないものも含めてこの世界にあるすべてのものに、「主をほめたたえよ」と呼びかけられています。「みことばの光」には、「壮大なパノラマを見る思いがする」とあります。

 東京で人気の観光スポットと言ったら、今年は何と言っても東京スカイツリーでしょう。今朝の新聞折り込みチラシにも、「行ってきました! スカイツリー」ということばが踊っていました。スカイツリーはもちろん、ある時に自然ににょきにょきと生まれたものではありません。構想を練り、設計を重ね、実験を経て、最新の技術を駆使してできあがったものだということを疑う人は、ひとりもいません。
 優れた建築家や設計者は、その作品ゆえに人々からの称賛、賛辞を得ます。
 
 この天地万物の創造者に対してはどうなのか? と、改めてこの詩篇を読んで思いました。
 心に留めたのは、「主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた」とのことば。
 「過ぎ去ることのない定め」とは何だろう…。「みことばの光」は、「自然界の不思議な秩序が神の創造によっていることを表わしている」と説明します。

 冬至を過ぎて、少しずつ日の出が早くなるのが実感できるここ数日です。
 当たり前のように思っていることにも、創造主のダイナミックなかつ繊細な「過ぎることのない定め」があって、この世界が保たれているのですね。
 ハレルヤ。


    


われらの神、われらの主

2012年12月28日 | 詩篇
詩篇147篇


 昨日は、障がいある方々のための支援施設の終業日。夜はスタッフで食事を共にしました。「おいしい」「おいしい」と食べて、気がついてみたらデザートになっていました。ということで、残っているのはデザートの写真のみ。とてもおいしいシュトーレンでした。 Photo

 「みことばの光」巻末にある「毎日聖書を読む聖書同盟の方法」に沿って、この詩篇を読みました。
「考える」という項目の中では、「神はどのような方、どのようなことをなさる方か」に当てはまる聖句が圧倒的に多いということを発見しました。圧倒的な神の恵みを賜った者たちができることといったら、「ハレルヤ」と主をほめたたえることなのですね。そのことだけだと言っても、言い過ぎではないでしょう。

 「みことばの光」が書くように、この詩篇はバビロン捕囚後のエルサレム再建と民の復興という背景があると考えられます。異国の権力を目の当たりにした民が、都を建て直そうと荒れ果てたエルサレムに戻って来ます。その際に彼らは、「主はエルサレムを建て、イスラエルの追い散らされた者を集める」と賛美するのです。

 考えてみますと、捕囚された民の子どもたちが帰還民の中心なのですね。彼らは、親たちのことばを何度となく聞かされて、神の約束を信じて帰国の日を待ち焦がれていたのです。ですから、捕囚からの帰還とは言っても、初めてエルサレムを見る人々がほとんどだったと想像できます。
 神の約束の実現を今の世代で見ることは叶わないかもしれないが、次の世代には必ず…と信じて、託していくというのもまた、大切な信仰の継承であると思いました。

 そのように考えると、「われらの神」「われらの主」であると、民が恵みをゆたかに与えられる神を賛美するという姿に、神の約束が成就したと言えるのではないでしょうか。

   


だれにたよるか

2012年12月27日 | 詩篇
詩篇146篇


 日本ではクリスマスが終わると、あっという間に店先からクリスマスツリーが取り除かれて、新年を迎えるためのセールが始まります。25日がほんとうはクリスマスの日なのですが、お店にとっては24日でクリスマスセールは終わり、あとは正月! ということのようです。普段よく買いに行くスーパーの店頭には、かまぼこや伊達巻、数の子などおせち料理が並んでいます。ですから、いつもの場所にあるべきものが…ない。戸惑ってしまいます。

 昨晩の祈祷会では、一年を振り返っての「あかしの会」となりました。「何月何日の礼拝のメッセージから…」、「『みことばの光』で黙示録を読んでみて…」、「2007年に『みことばの光』を用い初めてあと数日で聖書通読」などという話を伺っていると、感謝が込み上げてきます。おいしい紅茶とポンカンをいただきながらの会でした。

 詩篇146篇。詩人は、やがてちりになっていくような人間に頼るのではなくて、天地の創造者、真実で、正しいさばきをし、貧しい者や弱い者を顧みてくださる神にたよるようにと呼びかけ、神を賛美しています。
 だれにたよっているのか、を考えました。

 確かに、人は一人では生きていけません。自覚するしないは別にしても誰かをあてにして生活しています。昨日日本では新しい政権が発足しました。経済の再生を第一に掲げての船出だと報じられています。「経済を再生してくれるならば、廃業しないでもう少し仕事を続けてみるか」との中小企業主のことばも、数日前の新聞にありました。たよりにしているのです。

 詩人は、主こそまさに頼りがいのあるお方なのだと訴え、自分のいのちのある限りこのお方をほめたたえると歌うのです。そうありたいと、心から願います。
 


すべて

2012年12月26日 | 詩篇
詩篇145篇


 今日から大晦日(おおみそか)までは詩篇を味わいます。ということは「みことばの光」5年サイクルの最後の6日間ということですね。

 詩篇145篇は「私の神、王よ」との呼びかけから始まります。
 ダビデの作であるとすれば、「私の神。王よ」と王であるダビデが呼んでいることに意味があるのです。「みことばの光」には「上に立つ者たちに持ってもらいたい心である」とありました。
 「いちばん上」という立場に置かれる人は孤独だとよく言われます。「自分が偉い」とことさらに強調するのは、上に立つ者が、ほんとうはその立場から引きずり下ろされる日が来るのを恐れているのかもしれません。また、親身になって相談に乗ってくれる人もなかなか見つからないでしょう。ですから、どのような場合にも呼び求める「王」を持っていたダビデは、幸いな王であったと言えます。

 この詩篇で心に留まったのは、「すべて」ということばが多くちりばめられていること。12回も登場します。さらに「みな」ということばも2回出てきます。神の圧倒的に豊かな恵みに漏れる者はひとりもいないと、ダビデは謳うのです。

 年末になると「限定300名様」「あと3個!」などということばがあちこちで飛び交います。
 「限定」に弱い消費者心理をよく考えての販売法ですね。

 けれども、神の恵みはそうではありません。呼び求める者すべてに恵みを賜り、近くいてくださるのです。「すべて」の繰り返しは、「神のために…」「これもしなければ」という高ぶりを打ち砕きます。そして、自分にできるのは、終わりのことばにあるように、「私の口が主の誉れを語り、すべて肉なるものが聖なる御名を、代々限りなくほめたたえますように」ということだけだということに気づかせてくれます。
 
 


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