みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

千日にまさる一日

2020年10月31日 | 詩篇

詩篇 84篇

「まことに あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります。」10節

 手作りのザクロのタルトをいただきました。種もボリボリととても美味、ごちそうさま! きょう、10月31日は当地では「宗教改革記念日」です。プロテスタントの多い州では祝日ですが、私が住む州は週末の普通の土曜日です。今回の感染症拡大で、ヴィッテンベルグがちょっと遠く感じます。

 本篇には神の家を慕う詩人の思いが歌われています。「あなたの住まい」、「主の大庭」、「あなたの祭壇」、「あなたの家」、「シオン」、「あなたの大庭」、「私の神の家の門口」ということばによって、「なんと慕わしい」、「なんと幸いな」ということばの繰り返しによって、神がおられるところに自分がいることのあふれるほどの喜びが伝わってきます。

 しかし詩人は、平穏無事な中でこの歌を詠んでいるのではありません。「涙の谷を過ぎるときも」や「悪の天幕に住むよりは」などとのことばは、彼が辛いところ、誘惑の激しい中にいたことを想像させます。

 神のそばにいるとは、実際にはどこで味わうことができるのだろうかと思い巡らします。実際に聖地と言われるエルサレムを訪ねることだろうか、日曜日にともに礼拝の場に加わることだろうか、そのようなことだけではない、自分が「ここは神の大庭だ」と思えるところならどこででも、神に会えるのです。想像もできないほどの神の恵みです。

 10節でうたわれているように、神のそばにいることを「なんと幸いか」「なんと慕わしいか」と、感謝し喜びとしているだろうか…。


黙り続けないで

2020年10月30日 | 詩篇

詩篇 83篇

「神よ 沈黙していないでください。黙っていないでください。神よ 黙り続けないでください。」1節

 欧州の感染者急増の中、ドイツでも11月2日からほぼ前回のロックダウン並の厳しい制限が課せられることになりました。ただし、学校や幼稚園は開かれ、教会での礼拝についてもこれまでどおり。11−12月のクリスマス市(いち)も中止になりました。

 本篇は、ひっ迫した神への祈りから始ります。その後の展開を見ると、作者は個人的な悩みにあるのではなくて、自分たち神の民が敵の企てによって脅かされているとして、神に祈っていることがわかります。5―8節に登場する国々は神の民イスラエルの周辺の諸国。それらは「心を一つにして悪を企み」イスラエルを消し去ろうとしています。

 「あなたに逆らって」という5節のことば、「私の神よ」という13節のことばに目が留まります。自分たちが周りの国々から脅かされているのですが、作者は「私たちに逆らって」ではなく「あなたに逆らって」と祈ります。「私の神よ」も神と作者との近さ、親しさを覚えることばです。

 このことから、改めて1節の祈りを考えてみますと、そんなにも神と近くにいる者でも、いや、神と近くにいるからこそ、「沈黙しないでください」と祈らなければならない時があるのだということを考えさせられます。そして畳みかけるようなこの祈りは、神は必ず応えてくださるとの期待が込められた祈りなのです。 

 沈黙を当たり前のこととしないで…祈ります。


神々のただ中でさばきを

2020年10月29日 | 詩篇

詩篇 82篇

「弱い者と貧しい者を助け出し 悪しき者たちの手から救い出せ。」4節

 「エレミヤ書の続きか」と思って確認してみたら、詩篇82篇でした。10月の終りの三日間は詩篇を読みます。

 本篇は他の詩篇にはないユニークな始まりです。私が使用している聖書(聖書新改訳2017)には、1節に、三度登場する「神」(「神々」)ということばのヘブル語を欄外に注記しています。「神々」について、今日の「みことばの光」には「地上の支配者たち」だろうとしています。

 新約聖書には、神によらない権威はないということばがあります。ある人は社会を動かすよう力や知恵を持ち、またある人は大きなことをやってのけるだけの富を自分のものにします。そのほとんどはその人たちの才覚によって築き上げられたものでしょう。

 それを否定する気持ちはありませんが、この詩篇の始まりのことばを読みますと、それらの力や知恵などは神から来るのであり、支配者はそれをある限られた短い間だけ用いるように神から任されているということになります。

 自分の権力を誤用した者、つまり自分の欲得のために用い、弱い人々を顧みることなくかえって虐げた者を、神は正しくさばかれるのです。4節は、彼らが何のために力を与えられているのかを明らかにしています。

 コロナ感染者が急増している当地では、新たな規制が発表されました。政治的な責任を神から託されている人々のために祈ります。


心に書き記す

2020年10月28日 | エレミヤ書

エレミヤ書 31章23−40節

「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。」33節

 コロナ禍で今までできていたことができずに困惑する一方、これまでは考えてもみなかったことが実現するということも起こります。神が教会に与えておられるものを用いて、「エルサレムガイド」ビデオを作成しました。このページ左側ブックマークにある「フランクフルト日本語福音キリスト教会」をクリックしてご覧ください。

 神による回復の約束が続きます。

 まず、26節の「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった」ということばに目が留まります。「私」とはエレミヤのことです。これまでに何度も書いてきましたが、エレミヤが神から命じられたつとめは、人々の評価を得て礼を言われるようなものではありませんでした。むしろ耳を塞がれ、罵倒され、時には肉体的な苦痛さえも味わいました。 そのような彼の眠りはどのようなものだったのだろうかと想像すると、必ずしも安眠が続いたということではなかったはずです。

 けれどもここでエレミヤは、心地よい眠りだったと書いているのです。神が彼に見せてくださった未来が希望に満ちたものだったからでしょう。そして彼はこれから先、これまで以上に確信をもって神のさばきのメッセージを同胞に届けていったではないか、と想像するのです。

 次に33節に目が留まります。神と民との新しい契約には、神が律法を民のただ中、彼らの心に書き記すというのです。このことばは新約聖書ヘブル人への手紙10章16節で引用されています。つまり、これはイエス・キリストによって始まった神と民との新しい契約についての預言なのです。

 私たちの心に神のことばが記されているとの事実を思い巡らしています。


永遠の愛をもって

2020年10月27日 | エレミヤ書

エレミヤ書 31章1−22節

「女の優しさが一人の勇士を包む。」22節

 雨のため延期になっていた隣市のお店に歩いて買い物に行きました。初めての道は遠いと思うものですが、帰りの道は不思議に短く感じるものです。畑の中を歩きますと遠くに電車が走るのが見えます。感染者急増の中、心も縮こまりがちですが、とても良い時を過ごしました。歩数およそ14,500歩。

 捕囚された人々のバビロンへの道はどんなに遠かったかと想像するのですが、この章には一転、彼らが、正式には彼らの子孫がエルサレムに帰還する様子が描かれます。これまでは暗い景色を見なければいけなかったエレミヤ書の読者たちに、まばゆい光が差し込むかのようです。

 また、どこかで読み、心に留めていた聖句もこの章にはあります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実を尽くし続けた」という3節のことばもその一つです。ついでに29章11節のことばも、ここだけを抜き出して覚える程よく知られているのですが、どのような文脈(前後関係)の中でそれぞれのことばが神によって語られたのかを考えると、これまでとは違った味わいがします。

 バビロンによって神の都エルサレムが破壊され、人々が捕囚される出来事には希望はありません。神の怒り、そしてさばきの結果です。けれどもそのようなことを間もなく味わわなければならない人々に、また、遠くバビロンに捕囚されて望みを持ちえない人々に神は、「永遠の愛をもって…」と語られるのです。

 今日の箇所には、捕囚から七十年後というエレミヤの時代にとっては近未来の出来事だけでなく、その数百年後に来られたメシア、イエス・キリストによってもたらされる新しい世界についての希望も語られます。22節はその一つです。


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