みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

哀歌を賛美に

2022年05月07日 | 哀歌

哀歌 5章

 こんなものが売られていたらいいのにと思うのは、緑茶のペットボトル。ドイツでも最近は無糖の緑茶が売られているのですが、レモンやショウガなどのいわゆるフレーバーが入っているものです。それはそれで美味しいのですが、やはり緑茶だけが美味しい! と思いながら飲んでいます。

 哀歌の終章は20節まではまさに「哀歌」です。ここまで読んできて、「これでもか」というほど神のさばきゆえの哀しみが綴られてきました。しかし、哀歌は哀歌で終わりません。なぜなら、私たちの世界には十字架があるからです。十字架といっても装飾ではありません。イエス・キリストが十字架にかかられたという歴史の事実があるのです。これが哀歌を賛美に変える鍵です。

 21−22節に目が留まります。ここには、「帰らせてください」と「新しくしてください」の二つの動詞が並びます。神に罪を悔い改めた者に待っているのは、この二つの行動、アクションです。そして、これはすべての人々のために必要な祈りのことばであり、だれもが救われる道なのです。

 戦禍ゆえに多くの町が、家が、家庭が、いのちが損なわれています。そのような中で、「帰らせてください」「新しくしてください」はだれもが神に祈り求めるべきことばなのです。この願いへの主の答えは「イエス」です。そしてこれゆえに、哀歌は賛美へと変わります。


務めにふさわしく…

2022年05月06日 | 哀歌

哀歌 4章

 写真をデータとして残す作業は、休みゆえにはかどりました。アルバムに収めてある写真の頃は、フィルムを使っていましたので、無駄にしないように大切にシャッターを押していました。今は、何枚でも撮れますし、失敗しても削除できます。

 4章にはバビロンによって滅ぼされたエルサレムの惨状が生々しく映し出されています。黄金のエルサレム、人々が巡礼に上って来た町はすっかり荒れ果ててしまいました。

 外観の破壊、荒廃は目も当てられないほどのものですが、ここでは特に、そこにいる人々の悲惨な様子が描かれます。特に栄養が必要な乳飲み子や幼子に飲ませ、食べさせるものが欠乏しています。挙げ句の果てに人々は、自分の子どもを食べるというありえないことをします。それは、エルサレムの飢餓が深刻だったことを伝えています。

 そして本章では、指導者たちの責任が追求されます。預言者、祭司はどちらも神と民の間に立つ務めです。預言者は神が語れと託されたことばを人々に語り、祭司は人々の願いを神にとりなす者でした。しかし、彼らは自分たちの務めを果たさなかったのです。。

 ここで思うのは、務めを神から託された者の責任。それは、ここに描かれる預言者や祭司という旧約聖書の中で大きな役割を果たした人々に限りません。なすべきことを行い、語るべきことを語る備えは、普段から…と、ここから思います。


それでも祈る

2022年05月05日 | 哀歌

哀歌 3章40―66節

 今回の帰国ですることの一つに、ようやく手をつけることができました。たくさんある写真をデータに変換すること。しかし、写真の一つ一つに思い出があるので、時々は作業が止まってしまいます。

 3章後半は、呼びかけのことばから始まります。「私」が同胞に主のみもとに立ち返ろうと呼びかけているのです。まずは主の前に悔い改めようと勧めます。自分たちの背きの罪のゆえに、主の厳しいさばきが下されたと祈るのです。しかしそれは、赦してくださらない主に恨み言を訴えているのではありません。それほど背いたのですとの祈りです。

 45節の「私たちを諸国の民の間で、ごみ屑とされました」が心に留まります。主に祈るならば聞いてくださるというのが信仰者の確信です。しかし、ここでは主が雲を身にまとって祈りをさえぎられたととまで言っています。今更祈っても…というようにも響きます。

 しかし、作者はそれでも神に祈ります。55節からの祈りは、一人称単数「私は…」と主に呼びかけています。これは想像ですが、作者は同胞に「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」と呼びかけた、けれども彼らは「今更祈っても遅い」と拒んだのかもしれません。

 だから作者は、一人で主に願い求めます。私たちを苦しめる敵をさばき、滅ぼしてくださるようにと祈るのです。

 「それでも祈る、それでも祈れ」との促しが心に響く箇所です。


望みをだれに…?

2022年05月04日 | 哀歌

哀歌 3章19−39節

 3連休の初日は、さわやかな天候でした。満開のツツジは連休にはふさわしい花だと、ふと思いました。

 哀歌3章の中段は、これまでとは調子が変わったように見えます。けれども、それは本書の作者が神の厳しいさばきから目をそらして、せめて希望を持とう、物事を積極的に考えようとして綴られたものではありません。

 作者の苦悩とは、神がご自分の民を彼らの背きの罪ゆえに滅ぼされるということにありました。昨日も本欄に、作者は「彼らは間違っています。しかし私はそうではありません」などと突き放すことではないと書かせていただきました。19−20節からは彼の苦悩の大きさが伝わってきます。

 だからこそ、彼は「私は待ち望む。主の恵みを」と言えるのです。自分にわずかでも良い点があったら、あるいは自分で何とかできると思っているのなら、「主の恵みを待ち望む」という姿勢は生まれてきません。

 25―26節のことばに目が留まります。「主に望みを置く」、そして「主の救いを静まって待ち望む」ということばです。望みは自分にはないということに気づいて人は、主に望みを置くのです。

 私たちは、自分にはまだ望みがある、可能性があるから生きていける、辛くてもやっていけると思います。しかしここを読むと、神に背く自分に望みなどあろうはずがないのだということに気づきます。自分には望みが持てないのなら、いや、望みが持てないから、神に望みを置けるのです。

 


私が苦しむわけ

2022年05月03日 | 哀歌

哀歌 3章1−18節

 使わなくなったDVDプレーヤーやCDステレオなどを買い取ってくれる店に持って行きました。査定額は3,500円ちょっと。少しでも値段がついたので満足して帰宅しました。

 今日から三日間は祝日です。「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」と続きます。「みどりの日」は以前は4月29日でした。しかし、その日が「昭和の日」となったことに伴い、5月4日に移動して今のようになりました。

 哀歌3章は三日に分けて読みます。今日は1−18節。ここには「私」という主語で、イスラエルの民が苦難と悩みの中にいるのは神の怒りを受けたからだとことばが綴られていきます。「私」は苦しみ悩む者、「主」は「私」を苦しめ悩ませる方だとして語られています。

 なぜこのようになったのかの原因はすでに明らかにされています。それは神の選びの民イスラエルが神に背いたことによるのです。ここを読むと主のさばきの厳しさが伝わってきます。

 ここで哀歌の作者は、エルサレムの人々を代表して「私」と語っています。昨日の本欄でも書きましたが、本書の作者は苦悩の中にいます。神のみこころの中を歩みたいと願っているからこそ、彼は神に背いた人々がどのような苦難、悲しみに会わなければならないかを描きます。しかしそれは、「彼らは間違っています。しかし私はそうではありません」などと突き放すことではありません。

 罪を犯したエルサレムとは関係がないと突き放すことのできるのは一人もいないのだと、ここを読んで思います。「あの人たちとわたしは違う」と考えてはいないだろうか…と。


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