みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ハレルヤは天に、そして永遠に

2022年12月31日 | 詩篇

詩篇 150篇

 2022年の大晦日。5年で聖書全巻を読む「みことばの光」では、5年目の最後が今日になり、詩篇150篇を読みます。そして新しい5年のスタートが明日で、詩篇1篇を読みます。ウクライナ・オデーサから届くメッセージには、停電が続いているとありました。

 いわゆる「ハレルヤ詩篇」の最後です。本日の「みことばの光」には、150篇には「ほめたたえよ」が13回繰り返されているとあり、全体の構造も示されていて分かりやすくなっています。

 地上に生きる私たちの課題は、常に「誰をほめたたえるのか」ということだと、ここを読んで考えさせられました。英雄を、賢者を、富豪を…と賛美の対象をこの世は求めてさまよっているように見えます。

 けれども、詩篇の最終篇は「神をほめたたえよ」としつこいほどに呼びかけ、命じているのです。よく、詩篇1篇は聖書の主題の要約であると言われるのですが、150篇は締めくくりに何が残るか、何が大切かに気づかせようとしているように思われます。

 「みことばの光」は、11月と12月に「ヨハネの黙示録」を読みました。ありえないことが次々に起こる2022年でした。そしてその多くは解決を見ていません。けれども、そのような中で黙示録は、私たちに確かな希望を届けてくれたと思っています。私たちはどこを、そして何を目ざすのかと…。

 「ハレルヤ」は一過性のものではなく、天に続くのです。そして永遠に続くのです。「ハレルヤ」と神をほめたたえる身とされた幸いを覚えつつ、新しい年に向かって行きましょう。

 今年も、ご愛読を感謝いたします。皆様、主にあって幸いな新年をお迎えになりますように。


敬虔な者たちの誉れ

2022年12月30日 | 詩篇

詩篇 149篇

 今年最後の、「30分オルガンコンサート」に行きました。たくさんの観客が、ほぼ週2回ずつ弾き続けたオルガニストに、いつもより強く拍手を送っていました。きのうは3846回目のコンサートとのことです。

 いよいよ、2022年はあと二日。詩篇もあと二篇となりました。149篇には「敬虔な者」「敬虔な者たち」ということばが繰り返し用いられています。「敬虔な」ということばは、今では日常用いることのない者になっているように思います。いつか、「日曜日に礼拝をしています」と話しましたら、「ああ、敬虔なクリスチャンですね」と答えた方がいました。

 「敬虔な」ということばはまた、どちらかというとこの世の権力や富とは縁のない生活をしているというようにも考えられているかもしれません。

 9節の「これは、主にある敬虔な者すべての誉れである」ということばに目が留まります。「誉れ」とは成功者や勝利者にふさわしいと考えられています。しかし、敬虔な者の誉れとは、彼らに何か誇れるものや成功体験があるということではありません。「これは」というのは、神が、ご自分を恐れない王や権力者たちをことばによって正しくさばくことを指しています。

 この一年も、神のことばを読み続けてきました。そして、私たちの生活の小さな場面で、神のことばが働き、私たちを正しく治めてくださるという経験をさせてもらいました。これこそ、敬虔な者たちの誉れなのだと、教えていただきました。


天よ、地よ

2022年12月29日 | 詩篇

詩篇 148篇

 当地の学校は22日から1月7日までクリスマス休み。同じアパートに住むご家族も、祖国に戻っているようです。

 聖書の最初のことばは、「はじめに神が天と地を創造された」です。「天と地」ということばは、「すべて」を指し。神がすべてを造られたことを宣言しています。ここから、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」という、ヨハネの福音書1章13節を思い浮かべます。

 この詩篇には1節で「天において主をほめたたえよ」と呼びかけ、7節で「地において主をほめたたえよ」との呼びかけがあります。すべてのところで創造主なる神をほめたたえるのだというのです。

 天においては、「すべての御使い」、「主の万軍」、「日」、「月」、「すべての輝く星」、「天の天」、「天の上にある水」に呼びかけられています。5節の「主が命じて それらは創造されたのだ」ということばに目が留まります。神はことばによってこれらを造られたのです。

 地においては、「海の巨獣」、「すべての淵」、「火」、「雹」、「雪」、「煙」、「風」、「山々」、「丘」、「実のなる木」、「杉」、「這うもの」、「鳥」、「王たち」、「国民」、「君主たち」、「地をさばく者たち」、「若い男と若い女」、「年老いた者と幼い者」」に呼びかけられています。そして、私にも呼びかけられています。

 14節の「角」については本日の「みことばの光」で解かれています。1行目と2行目からも、「角」は「賛美」を意味するのだという発見があります。自分が偉くなるのではなくて、主に賛美をささげることなのだと、改めて気づかされます。

 ハレルヤ


神が好むこと

2022年12月28日 | 詩篇

詩篇 147篇

 冬至を経て、気がつくと少し日が長くなってきたのでは……と思わせるようなこの頃です。

 本篇を朗読して、「主は…建て」「主は…数え」「主は…支え」「主は…引き降ろされ」「主は…満たされる」「主は…雪を降らせ」……と、主を主語とすることばが並ぶことに気づきました。前篇に続いて、主は弱い者を顧みられる一方で、おごり高ぶる者を引き降ろす方だとも歌われています。

 10―11節のことばに目が留まりました。神はスピードランナーをお好きではないという早まった結論を出すべきではありません。10節と11節のことばはペアになっているようです。「馬の力」とは軍勢のことです。昔も今もどれだけの軍事力を備えているかが大切だとされます。一方「主を恐れる者」は主に頼ります。

 また、「足の速さ」も人間の強さや力を測るものです。それは、自分で何もかも働いて手に入れるということにも通じるかもしれません。一方に「御恵みを待ち望む者」ということばが置かれています。人には努力が必要だというのは大切な価値観です。

 しかし、足が速ければ、手が器用であれば、賢ければ、そしていっしょうけんめい努力すれば手に入るとは限りません。本篇の作者は、人間の高慢が危険であることを、詩のことばによって伝えようとしているように思えます。


君主ではなく主に

2022年12月27日 | 詩篇

詩篇 146篇

 当地は26日月曜日も「クリスマス第二祝日」で、スーパーなどはすべてお休み。でも、月刊誌「みことばの光」は待っていてはくれません。年末年始の特別スケジュールのために27日が入稿(印刷会社に送信)日なのです。無事3月号を送ることができました。

 146篇から150篇までは「ハレルヤ」に始まり、「ハレルヤ」で終わります。「ほめたたえよ、主を」という意味です。

 まず目に留まるのは、2節の「生きているかぎり主をほめたたえる」ということば。作者の強い決意が感じられます。人生とは…と問われたら、彼は「ハレルヤです」と答えるのです。

 3節以下では、この世の君主に頼らずに主に望みを置けとの勧めが歌われています。この詩の表題には何も書かれていませんが、多くの詩篇の作者であるダビデ王も、きっと同じことを述べるのではないかと、想像しました。「人に頼らずに主なる神に頼れ」というのが、ここでのメッセージです。

 なぜ人に頼らないのか。それはまず、人はいつか亡くなってしまうからです。どんなに優れた君主、リーダーにも終わりがあります。暴君の終わりは多くの人々に待ち焦がれることですが、善きリーダーがいなくなってしまうのは逆に大きな悲しみや不安をもたらすことでしょう。しかし、主なる神はとこしえの存在なのです。10節の「主は とこしえに統べ治められる」ということばに目が留まります。

 次に、権力を持つと人はしばしば、自分の繁栄を目ざすことのゆえに、弱い人々を虐げ搾取するからです。しかし、主なる神は常に正しいさばきを行われ、虐げられている人々、弱い立場にいる人々を支えてくださるのです。

 自分は何を、誰を頼っているのだろうかと、問われます。


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