みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

身を低くされる神

2022年01月31日 | 詩篇

詩篇 113篇

 ハレルヤで始まる詩篇の三つ目である本篇には、「主をほめたたえよ」ということばが並びます。

 1−3節から、誰がいつどこで主をほめたたえなければならないかが明らかにされます。人がこのお方を自分の主だとしたその時からとこしえまで、つまり終わることなく主をほめたたえるという生活が始まるのです。礼拝で讃美歌を歌う時だけでなく、いつもずっと、いつまでも…。それはつまり、自分や誰かをあがめる生き方は止めるということです。

 「日の昇るところから沈むところまで」というのは世界中の至るところで…ということです。それゆえに、このことばが完全に実現するのはやがて来る終末です。今はそうでなくても、やがて必ずそのようになる日が訪れるのです。

 世界中のすべてのものからほめたたえられるべきお方は、しかし「身を低くして…」「弱い者をちりから起こし 貧しい者をあくたから引き上げ」「子のいない女を 子を負って喜ぶ母とし」てくださるのです。このことばに、イエス・キリストのお姿がぴったりと重なります。

 ちょっとでもプライドが傷つけられると、怒りがふつふつと湧いてくるのが私たち。高きにおられる方が低いところに下られたのに、おるべきところにいろと言われて怒るのが私たちなのです。そんな者が称賛されるてよいはずはありません。ほむべきはただお一人のみ…。


主のみわざ

2022年01月29日 | 詩篇

詩篇 111篇

 春の訪れを告げる小さく黄色い花が咲き始めました。ウォーキングの途中に発見して嬉しくなりました。長く暗い冬が終わろうとしています。

 「みことばの光」で詩篇は、年の初めや終わり、そして月の初めや終わり頃に読むようにスケジュールが組まれています。111篇はこの後の112、113篇とともに「ハレルヤ」で始まります。

 「ハレルヤ」ということばは、「主をほめたたえよ」という命令のことばです。クリスチャンの中には、話の始まりやメールの初めにこのことばや似たようなことばを用いる人もいます。「主の御名をほめたたえます」とか「頌主」などですね。でも、そのように書く、そのように用いるなら、その時に一旦止まって、「主をほめたたえよ」と自分に問い直すことがあるとよいと考えるようになりました。

 この詩篇では「主のみわざ」に目が留まります。「主のみわざは偉大」、「そのみわざは威厳と威光」、「奇しいみわざ」、「みわざの力」、「御手のわざ」などです。神がなさったことに目を留め、それゆえに主をほめたたえよと命じているのです。具体的にそれは、出エジプトから約束の地への定住までのイスラエルの民になさったことを思い起こさせます。

 特に目に留まるのは、主がご自分の契約を忘れないということです。人は忘れ背くことをしても、主は定められた契約を忘れずにとこしえに覚えておられるのです。

 そのようなお方への人のあるべき態度は、この方を恐れることだと10節で述べ、後に続く112篇で主を恐れる者への祝福がどのようなものかが歌われていきます。


子どもたちに教えよ

2022年01月28日 | 申命記

申命記 11章

 冷たい雨の午後でした。いつもなら歩き出してしばらくすると体がホカホカとしてくるのですが、昨日は最後まで冷えたまま。帰宅して暖房のありがたさを感じることになりました。

 主の掟と定めと命令をいつも守れとのモーセのことばが続きます。

 2節に目が留まりました。あなたがたの子どもたちが、神の訓練、神の偉大さ、みわざを目撃したのではないことを心得よとのことばです。だから、今モーセのことばを聞いている人々が神のすべての命令を守り行えとモーセは訴えるのです。本書では、次の世代に伝えるということが繰り返し語られています。「聞け、イスラエルよ」から始まる戒めを伝える時にも、モーセは「これをあなたのの子どもたちによく教え込みなさい」と語りました(6章7節)。その後の6章20節では、神が命じられたさとしと掟と定めはどういうことかと息子が尋ねた時には、神がエジプトでなさったこと、荒野の旅を導かれたこと、そして神が約束の地でいつまでも幸せに生きるようにと与えたものだと語るようにとモーセは言っています。

 そしてここでは、親であるあなたがまず神の命令を行うのだと、モーセは言うのです。どんなに良いこと、立派なことを教えることができたとしても、それを誰かに伝えるために必要なのは、教える人、伝える人がそのように歩む、そのように歩むように努めているという姿なのだと、ここから教えられます。

 また、19節には子どもたちに神のことばを教えよとの命令があります。興味深いのは、「家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい」とあることです。そんなに子どもの耳元で教えるのであれば、逆効果なのではないか、「もう、うんざり!」と言われてしまうのではないかと考えるかもしれない箇所です。座るときも…歩くときも、寝るときも…起きるときもという対のことばで、いつでもどこででも機会があったら神のことばを教えよということを伝えようとしているのだと思います。

 大人も子どもも、生活の場で神のことばを聞き学ぶことが肝要だということを、ここから教えられます。


それらはそこに

2022年01月27日 | 申命記

申命記 10章

 約束の地を目の前にしてのモーセのことばが続きます。ここではホレブ(シナイ)でモーセが十戒を受けた時についてのモーセの回想の後半です。十戒が刻まれた二枚の石の板は、モーセによって砕かれました。それは、モーセが山に登っている間に民が鋳物の子牛を造って自分たちの神として拝んでいたことに、モーセが激しく憤ったからです。

 しかし、神は新たに二枚の石の板に戒めを刻んでくださいました。ここでモーセは神の命令に従います。石の板を二枚切って作れとの命令どおりに行い、木の箱を一つ作れとの命令どおりにアカシア材の箱を作ります。それは、民が神のことばに従わずに、勝手なことを行ったのとは対照的な態度です。1節で、神がモーセに命じたということは、民を滅ぼさないでほしい、アロンを赦してほしいと願うモーセのとりなしを神が聞いてくださったということなのです。

 5節の「それらはそこにある」ということばに目が留まります。あのホレブでの事件からすでに40年近くが経っていました。けれどもあの時にモーセが神のことばどおりに作った箱はそこにあり、箱の中の二枚の石板はそこにあるのです。「そこにある」ということは、神が民に与えられた戒めはなおも力を持ち、民は新しい地ににおいてもそれを忘れずに、守り行うということなのです。また、このことは神が心を頑なにする民をあわれみ、ここまで導いてくださったということを忘れないためにあるとも言えます。

 12節のイスラエルへの「今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは…」ということばは、そのまま時代を超えて、信仰者一人一人に投げかけている問いであり、答えなのです。


正しいからではなく…

2022年01月26日 | 申命記

申命記 9章

 使い込んだプリンタが壊れたので、新しく購入。今回は事務用のインクジェットプリンタ。大きなA3サイズがスキャンできたり印刷できたりします。普通紙に印刷するとこれまでとは違って少し「眠い」印象ですが、これも慣れかと思います。スマホやタブレットから直接印刷できるのも大きな変化です。

 イスラエルの民がこれから向かおうとしているのは、38年前に12人が偵察した地、カナンです。ずいぶん歳月が経ったので、神がその地に住む民を弱くしイスラエルが攻略しやすくしてくださったということではありません。2節の「あなたがたが知っているアナク人は、大きくて背が高い民である」とモーセは語っています。

 また、イスラエルの民が前回の失敗から学んで攻略の方法を生み出したので今度は大丈夫、ということではありません。前回も今回も手段は一つ、作戦は一つです。それは、3ー4節です。この部分には、「正しいからではなく」ということばが繰り返し出てきます。攻略の鍵はそこにあるのではないのだと気づきます。神が民の前に進むから、神が民に約束されたから、神が先住の民の邪悪さゆえに追い出そうとしているからなのです。

 「私たちが正しいから」という理屈は、どのようなことであっても勝利や成功の折りに心に思い、口にする理由だと思います。しかしモーセはここでも、民の思い出したくない荒野の40年を回顧させています。それは民を責めることに主眼があるのではないのです。失敗から学ぶことです。不信仰という罪から民は正しく学び、新しい地へは神への信仰、信頼を手放さずに向かって行くのだと命じるのです。

 またこの章からは、「聞きなさい」「知りなさい」という促しのことばが響いてきます。過去に聞く、過去を知ることがこの先の歩みにつながるのだと、この促しから確認できます。


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