みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

誰を信頼しているのか

2024年06月29日 | サムエル記第一

サムエル記第一 13章

 金曜日にスーパーで。清算が済んだ物を二人でそれぞれの袋に入れたのですが、素早い動きにレジの方には競い合っているように見えたようで、三人で大笑い。ちょっと楽しい体験でした。

 イスラエルの東のアンモン人を破り、彼の王としてのスタートは順調でした。その勢いをかって、サウルはペリシテと戦いを交えようとしました。

 ところが、息子ヨナタンが敵の守備隊長を殺害したことによってペリシテ側の恨(うら)みを買い、ペリシテ軍がイスラエル側のミクマスという場所に大集結してしまいます。イスラエルの兵士たちは恐れ隠れ、中にはヨルダン川を越えて東に逃げる者もいました。

 そのような中でも、サウル王は何とかヨルダン川の西のギルガルという地に留まっていました。しかし、彼もペリシテの強大な力の前に恐れおののいていたのです。自分たちを力強く導いてくれるはずの、しかも自分たちが危機にある時こそ指導力を発揮してくれることを期待されている王自身が、不安と恐れの中にあったのです。

 サウルはサムエルを頼りにしていました。しかし、頼みのサムエルがなかなか来ないので、兵士たちの離反を恐れたサウルは、自分がしてはならないことをしてしまったのです。どんなに優秀で、尊敬するべき人物であっても、神の替わりにはなりえないことをここから思います。

 あなたは誰を信頼しているのかと、心に問われる出来事です。


私を訴えなさい

2024年06月28日 | サムエル記第一

サムエル記第一 12章

 二週に一度の聖書の会。昨日は気温が高くわが家はしかも最上階。こちらの家は外気温がどんなに暑くても下の階はひんやりとしているのですが、最上階はそうは行きません。天窓のスクリーンも内側なので、熱がガラスを伝わって入ってきます。二時間近く何となく蒸し暑い…という部屋の中で、水分補給を怠らずに、熱く聖書を読みました。

 この章で年老いた預言者サムエルは、これまで自分が主の前に潔白であり続けたということを弁明しています。サムエルの師であった祭司エリも二人の息子が神の怒りを買い、サムエルの息子たちも、イスラエルのさばきつかさ、つまりイスラエルを導く者として任命されながら、「父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた」のです(8章3節)。

 このことは、父親であるサムエルにとっては心の痛みの一つだったと思うのですが、だからといってサムエルに責められるべき何かがあったなどと安易に結びつけてはならないと、私は思います。それではなぜ、サムエルは「私を訴えなさい」と自分の潔白を証明しているのかというと、民が王を求める大きな理由の一つが、息子たちの不祥事だったからです。

 それもサムエルと息子たちとの間、また民との間では何らかの解決があったことが3節のことばから想像することができます。

 サムエルは、これまでのイスラエルの歴史を振り返って、主ご自身が自分たちを守り導いてくださったと語っています。それは、王を持つことになった彼らが、主に従うことをやめてしまわないように、王たる者は率先して主に従う者であるようにと、渾身の力を振り絞って語っています。

 「私を訴えなさい」と問いかけることのできるのは幸いなこと。プライドや経験がその問いかけの妨げにならないようにと、願うことです。


怒りが激しく燃え上がり

2024年06月27日 | サムエル記第一

サムエル記第一

 日本への封書を送ろうと、1ユーロ10セントの切手を買おうとしたら、バーコードのついたラベルを発行してくれました。何となく味気がないと思いましたが、封書を個人的に送るのは稀なのだろうな、と納得できました。

 王としてのサウルの手腕が試されるような事態がイスラエルに生じました。アンモン人はヨルダン川の東側の民族。かつてモーセが率いるイスラエルの民に自分たちの領土を奪われたことがあり、イスラエルが不安定であり、西側のペリシテ人からの脅威が続いていたので、その隙に乗じて奪還しようとしたようです。

 ヤベシュ・ギルアデは、ヨルダン川東岸にありガド部族への割り当て地の中にありました。アンモン人はヤベシュ・ギルアデの人々に残忍な仕打ちをすると脅しました。ヤベシュ・ギルアデの人々はイスラエル中に自分たちを救ってほしいとの知らせを届けました。そして、サウルにもそれが知らされたのです。

 6節に目が留まります。神の霊がサウルの上に激しく下り、サウルは激高したのです。なぜこんなにも激しく憤ったのでしょうか。それは、アンモン人はイスラエルをそしったからなのです。そしてイスラエルがそしられるということは、すなわち主なる神がそしられることでした。主が憤っておられるので、神の霊が下ったサウルも激ク憤ったということです。

 彼はイスラエル中に、サムエルと自分に従って出てくるように、つまりヤベシュ・ギルアデをアンモン人から救い出すために立ち上がるよう呼びかけました。その呼びかけは、神の霊によるものでしたので、民は「主への恐れ」を持って呼びかけに答えました。戦いはサウルたちが勝利し、ヤベシュ・ギルアデの人々は守られました。

 憤らなければならない時に「まあ、いいか」としていないか、憤るべきではない時に「キレて」いないかと、探られる事件でした。


思いを超えて

2024年06月26日 | サムエル記第一

サムエル記第一 10章

 昨日午前(日本時間の夕方)、「みことばの光」を発行している聖書同盟のオンラインでのミーティングがあり、昨年度「みことばの光」の発行部数がほぼ販売されたとの報告がありました。聖書を毎日読むために本誌が用いられていることを感謝しております。

 本章は、サウルが君主、王としてサムエルによって油を注がれることから始まります。王になろうとする野心も努力もない青年が、ある日突然「あなたを王とする、主がそのように選ばれたから」と言われたら、何が起こったのかと戸惑います。それが、この時のサウルの偽りのない思いでした。

 サムエルはそのようなサウルの気持ちなどお構いなしに、次々と事を進めています。そしてサウルが、自分に起こったありえないことが偽りでないことを二つのしるしによって確かめられると語ります。まずサムエルは、その日のこれから先にサウルの身に何が起こるのかを語りました。次にサウルの上に主の霊が下りサウルが新しい人になると語りました。

 そして、それら二つのことが実際に起こったのです。この章を読むと、「荷物の間に隠れている」とか、軽蔑されても「黙っていた」とかと描かれていますので、サウルにとって「王にされてしまう」という戸惑いは大きかったことが伝わってきます。しかし、主はそのような彼にも分かるように、いや否定しようとしてもできないようにと、このような目に見えるしるしを与えられたのだと考えます。

 思いを超えて、予想をはるかに超えて、神は事を行われる方です。


出会い

2024年06月25日 | サムエル記第一

サムエル記第一 9章

 前にも書きましたが、街中にある教会で週二回演奏されている「30分オルガンコンサート」。昨日は3999回目でした。曲名はエルガーの「オルガンソナタ」。エルガーはイングランドの作曲家です。私は行進曲「威風堂々」、室内楽「愛の挨拶」の作者として知るのみでしたが、オルガンのためにも作曲していたのですね。木曜日は記念の4000回目ですが、残念ながら用事があって行けません。

 9章から、サムエル記は新しい展開が始まります。王制の始まりです。すでに預言者であり、民をさばいていてサムエルは、主なる神から「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ」ということばを聞いていました。一方、誰がどのように王になるのかについて、サムエル自身が知ることはありませんでした。

 しかしここには、決定的な出会いが神によって設定されていました。サムエルが神からそれを知らされたのは、出会いの前日だったと15節に書かれています。一方、ベニヤミン人サウルはそのようなことは何も知らされていません。二人の出会いのきっかけは、父が所有する雌ろばが何匹かいなくなったので、探すようにとサウルに頼んだことでした。

 5−6節のやりとりを読むと、サウル一人ならばあきらめて帰宅したはずです。しかし、一緒に行ったしもべによって「神の人情報」が知らされ、その結果サウルと予見者サムエルとの出会いが実現します。

 全く予想もしていなかったのに、だれかとの出会いがあり、それが自分の人生を大きく変えたということがあります。私にもそのような出会いがあります。何よりも決定的なそれは、イエス・キリストとの出会いでした。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki