みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

私の助け

2022年04月30日 | 詩篇

詩篇 121篇

 洗濯機が大きな音を立てて動いているので買い替えることになり、家電量販店で購入しました。すると翌日、ついに動かなくなってしまいました。まるで自分の役割は終わりましたと言っているかのようです。このようなことに出くわすと、神は生きておられるという思いになるのですが…。

 120篇が巡礼への動機を思わせるのだとしたら、121篇は巡礼の出発の場面が浮かびます。「私」は出発しようとする巡礼者、その「私」を「あなた」と呼ぶ親しい人でしょうか。「私」は巡礼への出発の際に「私の助けは主から来る」と、自分の確信を語ります。巡礼に送り出そうとする人は、「私」の確信を受けて、「主はあなたを守る方」だと言っています。

 この詩篇を読む度に、御国への旅を続ける信仰者の姿が重なります。人生を旅とたとえる人は少なくありません。私が生まれ育ったのは、江戸時代の俳人松尾芭蕉が立ち寄った場所です。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」「奥の細道」の冒頭はよく知られています。現代語で表すと次のようになるでしょうか。「月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。」

 旅の間中、旅人は道中の無事を願います。そして本篇は、だれが旅路を守るの歌、それは主なのだということを歌い上げるのです。

 どこを取っても、読む人を励ます詩篇です。


だからこその礼拝

2022年04月29日 | 詩篇

詩篇 120篇

 どこからか甘い香りが漂ってくると見回すと、藤の花でした。本日の写真は違いますが…。

 詩篇120篇は、いわゆる「都上りの歌」の最初にあります。「みことばの光」には、「『都上りの歌』について」という記事が掲載されています。それによると、120―134篇の表題につけられている「都上りの歌」は、神の都シオン、エルサレムに礼拝者が上って行く時にともに歌った巡礼歌だと一般には言われています。エルサレム神殿の「婦人の庭」から「男子の庭」まで15段の階段があり、祭司たちが1段上るごとに1篇ずつ歌ったという節もあります。

 120篇は、エルサレムに上る高揚感や期待のようなものを歌っているのではありません。ここには、詩人が主に向かって自分の苦しみを訴えています。そして彼は偽りの唇や欺きの舌に苦しめられているのです。

 5節には、メシェク、ケダルという場所の名前が出てきます。メシェクは黒海と地中海の間にあり、ケダルはアラビア砂漠にありました。なぜかは分かりませんが、詩人(たち)は、エルサレムから遠くにいるのです。しかし彼には、主を慕い主に祈る信仰がありました。

 身の回りが厳しい中にあるからこそ、詩人は都に、シオンに上ろうという思いを募らせるのです。ですから、本篇は「都上りの歌」の最初にふさわしいのです。

 今も信仰者は、普段の生活の中で苦しみが次々に襲い、偽りや欺きに振り回されています。だからこそ、礼拝へを渇望するのです。そのような思いで、ともに集まるのです。


終わりまで

2022年04月28日 | ダニエル書

ダニエル書 12章

 世界を揺るがす感染症と軍事侵攻ゆえに、落ち着かない日々を過ごす今、「先の見えない…」ということばが報道で目立つように思えます。

 ダニエル書の終章にあるのは、神の民が受けなければならない大きな苦難のことです。この苦難は人を振り分けます。ある者は永遠のいのちに、ある者は永遠の嫌悪に、またある者(賢明な者たち)は輝くのです。しかし4節には、ダニエルはここで聞いたことを終わりの時まで秘めていなければならないとあり、このことは9節でも繰り返されています。

 ダニエルはやがて来る大きな苦難について、その詳細を知りたいと願ったのでしょう。しかし、それは叶いませんでした。9節に「ダニエルよ、行け」ということばが目に留まります。秘められ、神が明らかにする終わりの時まで封じられていても、ダニエルは行かなければならないのです。

 未来について知りたいというのは、一人一人の人生においても歴史でも、多くの人の関心事です。明日何が起こるのかが分かることで、危険を回避したり大きな利益を得たりするということもできます。しかし、私たちは未来を知ることができません。勝手に予測することもありますが、確かなことは分かりません。だからといって、明日を迎えることができないわけではありません。

 ダニエル書最後に位置することばは、直接聞いたダニエルだけでなく、すべての信仰者の希望です。はかなく消え去るものではなく、必ず待っている希望です。だから、分からなくても行くのです、主に信頼して…。


自分の神を知る人たち

2022年04月27日 | ダニエル書

ダニエル書 11章20−45節

 運転免許証を手にすることができました。コロナ禍にあって帰国できずに更新の機会を逃してしまった人が少なくないのは、特別にそのための用紙が用意されていることからも分かりました。

 11章後半には、主に旧約聖書と新約聖書の間に実際に起こった出来事についての預言が記されています。

 南の国エジプトのプトレマイオス王朝と、北の国シリアのセレウコス王朝の派遣を巡っての緊張、争い、戦いが続きます。21―45節にあるのはシリアのアンティオコス4世エピファネスのことです。21節で「卑劣な者」と呼ばれる彼は、エジプトを自分の支配下に置こうとして、冷酷な作戦を指示したことで知られています。略奪と虐殺です。しかし、25―30節を読むと、エジプト攻略は失敗に終わったことが分かります。

 30節後半から35節は、アンティオコス4世がイスラエルを攻撃したことについての描写です。彼はエルサレムの神の宮を汚し、ゼウス像や天の万象へのいけにえをささげよと強要します。神殿の多くの祭司たちはアンティオコスの命令に従いますが、祭司マタティアは5人の息子たちとともに王の命令に背き、やがて戦争となります。これが「マカバイ戦争」と呼ばれる反乱です。

 36節以降に記されているのは、やがて私たちのこの世界に起こることです。「不法の者」がわが物のようにこの世界を蹂躙しようとします。今起こっている出来事とここでの預言を結びつけることには慎重である必要がありますが、待ち構えているのは、このようなことなのです。しかし、どんなに彼が力を振るっても「ついに彼は終わりを迎える」のです。

 32節の「自分の神を知る人たち」ということばに目が留まります。神がどのような方かが知るならば、人を恐れる罠から守られます。このような時だからこそ、「自分の神を知る人たち」の一人でありたいと願う者です。


つまずき、倒れていなくなる

2022年04月26日 | ダニエル書

ダニエル書 11章1−19節

 失効した運転免許証を再度発行してもらうために運転免許センターに。ところが、調えた書類の一つに不備があり、もう一度市役所に…。火曜日に出直しです!

 11章2節から12章4節には、終わりの日に起こることが預言されています。「終わりの日」とはまず、ダニエルがいたペルシア帝国のその後という意味です。ダニエルが「一人の人」から真理を知らされたのは、ペルシア王キュロスの第3年。キュロス王の後ペルシアには、カンビュセス、スメルディス、ダレイオス・ヒュスパスペスという王が起こります。そして2節の「第四の者」とはクセルクセス王で、エステル記に登場します。彼は力を蓄えてギリシア遠征を企てますが失敗します。

 その後、マケドニアのアレクサンドロス大王が瞬く間に世界を制覇します。彼は、3節で「一人の勇敢な王」と記されています。しかし、世界を自分の手にして間もなく彼は死んでしまうのです。その後は南のエジプトプトレマイオス王朝と北のシリアアンティオコス王朝との間の戦いが続きます。5−20節にはこのことが綴られています。

 力のある者がさらに力を得ようと戦いを挑み、ある時には成功しまたある時には失敗する…、私たちの世界はどこででもこのような力と力のぶつかり合い、時には妥協して血縁関係に入ることで無駄な勢力を費やすことを避けるのです。特に5−20節の「南の王」と「北の王」とのまるで綱引きのような戦いの間にあるのは、イスラエルです。ここでイスラエルは「麗しい国」と呼ばれます。麗しい国が荒らされるのです。

 19節の最後のことばに目を留めます。「つまずき、倒れていなくなる。」この世で絶大な権力を誇示する者も永続することはありません。ここにあるように、やがていなくなるのです。

 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」というペテロの手紙第一1章24−25節のことばをおぼえます。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki