詩篇 121篇
洗濯機が大きな音を立てて動いているので買い替えることになり、家電量販店で購入しました。すると翌日、ついに動かなくなってしまいました。まるで自分の役割は終わりましたと言っているかのようです。このようなことに出くわすと、神は生きておられるという思いになるのですが…。
120篇が巡礼への動機を思わせるのだとしたら、121篇は巡礼の出発の場面が浮かびます。「私」は出発しようとする巡礼者、その「私」を「あなた」と呼ぶ親しい人でしょうか。「私」は巡礼への出発の際に「私の助けは主から来る」と、自分の確信を語ります。巡礼に送り出そうとする人は、「私」の確信を受けて、「主はあなたを守る方」だと言っています。
この詩篇を読む度に、御国への旅を続ける信仰者の姿が重なります。人生を旅とたとえる人は少なくありません。私が生まれ育ったのは、江戸時代の俳人松尾芭蕉が立ち寄った場所です。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」「奥の細道」の冒頭はよく知られています。現代語で表すと次のようになるでしょうか。「月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。」
旅の間中、旅人は道中の無事を願います。そして本篇は、だれが旅路を守るの歌、それは主なのだということを歌い上げるのです。
どこを取っても、読む人を励ます詩篇です。