みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ぐらつく中で

2014年04月30日 | 詩篇
詩篇62篇


 雨の朝です。
 ゆっくりと低気圧が東に進んでいるので、昨日のバザーは雨に降られることなく無事終了しました。
 恒例の行事なので、ご近所の方がたくさんおいでになりました。幼稚園の卒園者もたくさん来てくれて、「ずいぶん大きくなったねぇ」などと、うっかり失礼なことを言ってしまいました。

 62篇は愛唱詩篇の一つ。ダビデは敵の巧みな攻撃にさらされ、足下がぐらぐらしています。そのような中で彼は、神こそ私の岩であるからゆるがされることはないと決意しているのです。

 3、4節に注目します。
 敵は私の弱点を突き、崩してやれとばかり揺さぶります。弱さばかりではくて、私に賜った神の祝福をねたんで、そこから突き落とそうと企みます。「口では祝福し、心の中ではのろう」とは敵の巧妙さを表していることばですね。

 ダビデはここで、自分の決意を二度述べています。1,2節と5,6節です。
 これはただの繰り返しではなくて、いくつかのことばや表現が変化していることに気づきます。ダビデの心の動きを感じさせるような変化です。

 「神を待ち望む」と決意を述べたダビデが、さらに大きな動揺の中で、実際に神を待ち望んで信頼しているというように、事が進行しているように読みました。
 「そうしなければならない」と決意することと、決意を実行するという違いのように思えます。

 この違いは大きい、と思います。
    


そこから祈る

2014年04月29日 | 詩篇
詩篇61篇


 これから、教会ではバザーがあります。もう30年近くも続いているのですが、いつもたくさんのご近所の方がおいでになります。掘り出し物もたくさんあります。心配された天候も日中はだいじょうぶそうです。

 この詩篇では、「地の果て」から「私の及びがたいほど高い岩の上に」という、ダビデの祈りに目が留まります。自国を離れて、心が衰え果てている…。ダビデにとって、それはいつのことなのかを想像しました。
 もしかしたら、わが子アブシャロムに追われて裸足で王宮から逃げた時のことが背景としてあるのかもしれません。

 自分のホームグランドから遠く離れた所に行かされたのは、ダビデだけではありません。アブラハムがそうでした。ヤコブも遠くに逃げました。ヨセフもエジプトに売られました。国を失ってバビロンに捕囚された民もそうです。
 この人々は、そこで、そこから、神に祈りました。不安定なところで、安全を求めて祈るのです。「私の及びがたいほど高い岩の上に」導いてくださいと…。

 そして、3、4節にある「避け所」「強いやぐら」「幕屋」「御翼」ということばは、緊急時の避難所から次第に、温かな安らぎの場というように発展してるように感じられますね。

 「地の果て」と言われるような場所は、教室にも、会社にも、そして家庭にもあると思います。けれども、そこから「神よ」と祈るなら、超高速エレベーターが連れて行ってくれるところよりもはるかに高く安全なところに、神は引き上げてくださるのだと思うと、喜びが湧きます。
  


神によって

2014年04月28日 | 詩篇
詩篇60篇


 朝の公園では牡丹が咲いていました。Photo

 昨日は、私たちの母教会で55年にわたって牧師として奉仕してこられた恩師夫妻のの離任式、歓送会がありました。
 それほど遠くに住んでいるのではないのですが、普段はそれぞれの働きのためになかなか会う機会がありませんでした。私たち夫婦がお二人に会ったのは42年ほど前になりますが、歓送会の間たくさんのことを思い浮かべました。
 「祈っています」ということばに、どれほど励まされたことでしょう。
 恩師の力強いあいさつから、伝道への熱い思いはなお消えてはいないのだということを感じました。

 きょうは詩篇60篇。
 ダビデたちはこの時、神を悲しませることをしたために、神が自分たちを懲らしめておられるという局面にありました。心に留まったのは「神によって、私たちは力ある働きをします」とのことば。「人の救いはむなしいもの」だと言ったあとで、ダビデは「神によって、私たちは力ある働きをします」と告白します。
 「人の救い」とは、だれかが自分たちを助けてくださるということよりも、自分たちには力がないという意味だと思います。

 私たちは、自分たちの救いを届けようとしているのではなく、神の救いを期待し語る者だと、教えられます。そして、教会が「神にあって」歩んでいるか、「神にあって」働いているかと問われるのです。


さばく神が、地に

2014年04月26日 | 詩篇
詩篇58篇


 日本ではきょうから大型連休のスタート。今年は初めの頃と終わりの頃に土日が来るので、もしかしたら休みを取りにくいのかもしれませんね。
 連休中の私の計画は、29日に教会でずっと続けているバザーがあります。天候が懸念されますが、「雨でもやります」とチラシにあります。
 あとは普段とそれほど変わらないだろうと思っています。

 詩篇58篇も、前後の詩篇と同じく「ダビデのミクタム」と表題にあります。ただし、57,59篇ともサウルに追われているという背景が明らかですが、この詩篇の場合はどのような事情があったのかははっきりしません。
 「裁判を受ける暴君たち」とのタイトルをつけた解説もあります。
 人を正しく治めるべく神によって立てられた君主が、腹黒いことを行っていることを告発し、神に彼らをさばいてほしいと祈っているのです。

 コブラやかたつむりが出てくることに興味が湧きました。
 コブラの毒が人を殺すように、暴君の悪政は民をしいたげ死に追いやります。
 作者は、暴君たちをかたつむりが塩で溶けるように、消し去ってほしいと祈ります。

 所詮(しょせん)世の中は力がすべてと思えるようなことが連発する中で、いやそうではなくて、「さばく神が、地におられる」と信じて祈ることゆえの平安を持つさいわいを覚えます。
    


ただ一歩の隔たりの中で

2014年04月25日 | 詩篇
詩篇57篇


 きょうから少しの間、詩篇を味わいます。
 「みことばの光」60,61ページには、今回読もうとしている57-62篇の表題に注目した文章があります。
 そして、「『滅ぼすな』の調べ」についてのいくつかの解釈を紹介していますが、サウル王に追われ続けるダビデが「私と死の間には、ただ一歩の隔たりしかありません」と親友ヨナタンに語ったことばを心に留めました。

 この時ダビデは、それこそ死と隣り合わせの日々を送っていたのです。きょういのちを落とすか、明日死ぬかという切迫した状況の中で、神に祈ります。いろいろなことで余裕があるけれども、念のために祈ろうなどということとはまったく異なります。

 「私のために、すべてを成し遂げてくださる神に」呼ばわると、ダビデは祈っています。このことばにダビデの信仰が込められています。自分と死との間にはただ一歩の隔たりしかない、しかし神は私のためにすべてを成し遂げてくださり、恵みとまことを送ってくださると信じて祈るのです。

 私などちょっとしたことで落ち込んでしまいます。そんなときには、自分の目の高さと同じかそれより下のものばかりに目が留まります。そこにはもちろん美しい草花が咲き、神の恵みがあふれているのですが、何も目に入りません。
 そのようなときこそ、上を見て神に呼ばれとの促しをこの詩篇から覚えました。

 神が送られる恵みとまことがあまりにもゆたかなものなので、神の恵みは天にまで及び、まことは雲にまで及ぶということばは驚き。心を高く上げることができました。
      


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