みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

世の光

2022年07月30日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 8章12−20節

 月に一度の家庭での聖書の会が金曜日にありました。例の「9ユーロ切符」を活用して向かったのですが、思いのほか接続がよく、路面電車に乗るはずの停留所から目的地まで歩くことができました。帰りの乗り換えもスムーズで自動車の時より少し時間がかかっただけで帰宅できました。

 ヨハネの福音書は、イエスの「わたしは…です」という宣言を7つ記していますが、「わたしは世の光です」は「わたしはいのちのパンです」に続く、二つ目の宣言です。

 仮庵の祭りの夜、エルサレムの神殿の婦人の庭に4本の黄金の燭台が築かれ、祭司がはしごで上って火を灯します。煌々(こうこう)と輝く灯は神殿全体を照らし、さらにエルサレムの街を照らしたと言われていました。仮庵の祭りは、エジプトを脱出したイスラエルの人々が40年間荒野を旅した時、神が昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを導かれたことをおぼえるためのものでした。このような時に、「わたしが世の光です」とイエスが言われたのです。あの光ではない、わたしが暗い世を照らすのだと宣言しておられるのです。

 このことばに、またまたパリサイ人の非難の声が上がります。。自分で自分のことを証言しているので、イエスの証言は真実ではないという「突っ込み」です。もっともらしい非難ですが、一つの大切なことを彼らは知ろうとしませんでした。それは、イエスは神であられるので、だれの証言も必要がないという事実です。17−18節でイエスは、律法に基づいて二人の証人が必要だとしたら、わたしと、わたしの父とだとも言っておられます。

 実のところ、確かなことが分からない私たちは、真実を証明するためには証言を、証人を必要とします。しかし、イエスはそれを全く必要としないのです。

 20節の「イエスの時がまだ来ていなかった」ということばにも目が留まります。時を支配しておられるお方のことばです。私たちには、時についても確かなことが分かりません。だからこそ、私のための時をイエスが治め、定めておられるのだと知るならば、こんなに心強いことはありません。


罪のない者が、まず

2022年07月29日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 8章1−11節

 インスタントカメラの印画紙をオンラインで注文、夕方にお店で受け取りました。スマホの写真は鮮明に撮れるようになりましたが、インスタントカメラはそれとは違う方向のようです。一台ずつ持って来た孫たちが、いろいろな写真を撮って楽しんでいます。

 この箇所に人間の心の陰湿さが顔を出しています。イエスを殺そうとする機会をうかがっている人々が、姦淫の現場で捕えた女性をイエスの前に連れて来ました。理由はイエスを告発するためでした。

 もしもイエスが、この女は確かに律法にしたがって石打にすべきだと言ったならば、取税人や罪人の側に立ってなどいないと多くの人々はイエスに失望を露にすることでしょう。一方、この女を赦すべきだとイエスが言ったならば、パリサイ人たちはイエスを律法を破る者だとしてさらに追いつめることは明らかでした。

 イエスは、ご自分を訴える人々に言葉を返されました。

 人は、誰かを攻撃する時にはとても勢いがあります。しかし、自分に矛先が向けられるとそうはいきません。しかし、イエスはご自分への追求をかわすために、「罪のない者が、まず…」と言われたのではありません。自分に罪がないと言いうる人は、ある方を除くと一人もいないのです。もしも、「私には罪がない」と言う人がいたら、その人はよほど自分を知らないのです。

 イエスのこのことばは、すべての人に問いかけられています。私にも…。


妨げる心

2022年07月28日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章37−53節

 

 州北部カッセルの「水の芸術」を見に行きました。世界遺産ヴィルヘルムヘーエ公園で初夏から秋にかけて、おもに水曜日と日曜日に開催されています。時間が来ると、水が階段状の水路を勢いよく流れ始めます。水の勢いでラッパも鳴ります。そしてフィナーレは50メートル以上の大噴水…。残念ながらトイレに行きたいという同行者がいて、見ることができませんでした! でも、次の機会には大噴水だけでも見たいと思います。

 仮庵の祭りにエルサレムに上ったイエスと、人々との衝突が続きます。

 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」とイエスは言われました。そして、ご自分を信じる人のの心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになると約束されました。のどの渇きは水を飲むと一時的に収まりますが、心の渇き、たましいの渇きはそうはいきません。イエスはたましいの渇きを癒やす「生ける水」を約束するのです。それはやがてイエスを信じる者が受ける御霊を指しているのです。

 このことばは、人々の心を揺さぶりました。群衆の見解はいくつかに分かれました。「あの預言者だ」「キリストだ」「とんでもないことを言っているから捕えなければ」と…。

 イエスを捕まえにパリサイ人と祭司長たちから遣わされた下役たちの心の柔らかさのようなものと、それに対比するかのようにして、パリサイ人と祭司長たちの頑なさに目が留まります。

 自分たちが学んできたこと、受け継いできたことが、彼らのイエスを見る目を曇らせています。見えると言っていながら、実は大切なことが見えていないのです。彼らの心を妨げていることは何でしょうか。

 48節のパリサイ人たちの言葉の後で、ニコデモが登場するのはとても興味深いことです。「いや、議員の中にいたのだよ」とヨハネはパリサイ人たちに語りかけているかのようです。でも、ニコデモがイエスへの信仰を明らかにするのはもう少し先になります。


混乱する人々

2022年07月27日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章25−36節

 最上階の屋根の形のとおりの天井がある部屋に住んでいるので、このところの猛暑でかなりの室温になります。そこで、日よけのシャッターをつけてくださることになりました。けれども工事は9月。期待は来年に持ち越しということになりました。

 入れ替わり立ち替わり、イエスと衝突する人々が登場するというのがきょうの箇所。どんな人々でしょうか。25節にエルサレムのある人たちが、31節にイエスを信じる群衆が、32節にパリサイ人・祭司長たち・下役たちが、35節にユダヤ人たちが登場します。

 ここに登場する人々すべてが、イエスが誰なのかについての疑問を持っていたということに目が留まりました。それぞれの立場からイエスを見ていた彼らは一致した見解を示すことができず、混乱していました。ある人々はイエスを捕えようとしました。しかしそうでありながら彼らはイエスに手をかける者はいなかったという奇妙な行動をします。

 ある人々はイエスを信じていながら、権威者たちを恐れて公にはしないでいました。ある人々はイエスを捕えようとして下役を遣わしますが、遣わされた彼らもイエスのことばに疑問を募らせます。

 一方でイエスのことばは確信にあふれ、人々の評価や態度などに左右されることはありません。私はここを読んで、イエスは大きな声で言われ、周りの人々が小声で話すという対比に興味を持ちました。

 イエスがもしも私の、私たちの前に現われてくださったら、自分がとる最もあるべき態度とは何かと、ここから考えるのです。あれこれ憶測を重ねることなく、大きな声で自分が誰かを話す方のことばに耳を傾け、素直に受け入れることしか道はない、と思います。


変えることのできない事実

2022年07月26日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章14−24節

 先週金曜日、月曜日、火曜日…と日本に一時帰国する教会の方々がいます。多くの方は久しぶりの帰国です。それぞれが無事に往復し、日本で良い出会いを経験するようにと祈っています。

 聖書学者テニイは、ヨハネの福音書7章から11章に「衝突の期間」という見出しをつけています。衝突とはイエスとイエスをキリスト(メシア)と認めようとしない人々とが事あるごとにぶつかっていることから来るのだと思います。「ぶつかっている」というのは激しい論争という意味です。

 この箇所に描かれているのは、仮庵の祭りの半ば過ぎにイエスが宮で教え始めたことから起こったユダヤ人、群衆との衝突です。

 ここでは、イエスが宮でしっかりとした学びを積んだ学者たちも驚くほどの話をしておられたことから議論が始まりました。「学んだこともないのに、どうして学問があるのか」というのが聞いていた人々の疑問でした。イエスの答えは、ご自分の教えは父のものだということでした。

 私たちは、さまざまな人を師として学びを重ねて、自分の考え方や方向を明らかにして行きます。「…門下」とは、どの先生の元で学びを積んだかということです。しかしイエスのそれは「父からのもの」です。イエスが父と呼ぶのはユダヤ人が恐れかしこむ神です。イエスは事あるごとに、このことを伝えています。

 それがユダヤ人の特に宗教家たちの逆鱗に触れ、いのちを狙われることになっていました。しかし、イエスは自分がそのように語ることで身の危険にさらされることを知っても、それでも変えようとしないで、変わらずにご自分の考えを明らかにし続けています。

 事実だからです。事実を変えることはできません。


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