みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

貫くこと

2016年11月30日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 16章17−27節

 きょうで11月が終わり。今回の「ローマ人への手紙」も読了です。パウロは手紙の最後で、戦うようにとローマの信徒たちに勧めます。それは「みことばの光」が書くように、教会を骨抜きにしてしまう誤った教え、それを持ち込む自分の欲に仕える人々、そして彼らを操るサタンと戦えと勧めるのです。

 「ローマ人への手紙」は正しい教理をきちんと説いています。なぜそれが大切かというと、正しい信仰の理解に立たなければ、教会の特長を失ってしまうからです。教会は仲良しグループではありません。「いろいろな教えがあるけれども、まあそこのところは目をつぶっていっしょに行きましょうよ」などと言うことがまかり通ってはならないのです。

 心に留めたのは、「あなたがたの足で」という一言。教会を混乱、そして破壊に誘う力が働いているときに、神さまが何とかしてくれるだろうと「高みの見物」を決め込むのではなくて、自分たちの足でサタンの策略に対して「ノー」と行動するするように、パウロが促していることを心しました。

 最後の頌栄は、私たちが、教会が何によって立つものであるのかを伝えます。それは福音であり、福音の正しい理解なのです。それを貫くようにとのパウロの促しを受け止めます。


主にあって

2016年11月29日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 16章1−16節

 お待たせいたしました。きのう夕方、中心部のクリスマスマーケットに出かけました。とても寒い日でしたが、マーケットのそばの教会の「30分オルガンコンサート」を聴いた後で、ぶらぶらと町歩きをしました。市場に見事な大根があったので、ぬか漬にするために購入。ザックに入りきれないで大根の根元の部分が飛び出たまま歩き回りました。

 ローマ人への手紙終章の前半には、たくさんの人の名前が出て来ます。「みことばの光」には、「一世紀の世界の様子がいかに現代社会に近かったかがうかがえる」と書いてありますが、当地に住んでみますとそのことを実感します。先日ルーマニアに行きましたが、2時間も飛ばないうちに着いてしまいます。航空運賃も一人で往復70ユーロちょっと。さらに、その地で新しい主にある友ができ、ネットワークが拡がります。一度で名前を覚えるのは難しくなってきましたが、今回の旅行でも何十人という新しい主にある友ができました。

 また、日本で私たちの働きを祈りをもって支える方々との月例のミーティングも、今では「テレビ電話」(古いことば!)で、いっしょにいるかのようにできてしまう時代にいます。

 このように、移動手段やコミュニケーションの手段は大きく変わりましたが、「主にあって」という結びつきは変わりません。これだけの人々の名前をパウロが手紙の終わりに並べられたというのは、彼がこの人々を覚えて祈っていたということが考えられます。そしてパウロも、彼らとの交わりによって支えられていたのです。


イスパニヤに

2016年11月28日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 15章22−33節

 待降節(アドヴェント)第一日曜日はどのようにお過ごしになりましたか。当地ではクリスマス市が幕を開けました。まだ足を運んでいないのですが、暗い11月の終わりに、ようやく光が灯ったと言ったら大げさでしょうか。

 きょうの箇所からは、パウロの宣教への熱い思いが伝わってくる、いや、パウロを動かす聖霊の御思いが伝わってきます。

 何枚かの写真でも紹介しましたが、18−25日まで、ルーマニアのクルージュ=ナポカという町を訪ねました。この地で20年にわたってルーマニアのプロテスタント教会の働きに携わっている日本人の宣教師といっしょでした。共産党政権が倒されてまもなくこの方はルーマニアに行き、リバイバルを体験し、人々が大挙して信仰に導かれる姿を見たと言います。そして、プロテスタントの教会は成長して今に至っていると伺いました。

 そしてこの方は、安定的に成長した教会の今に決して満足することなく、さらに新しい教会を…という願いを持っておられました。しかしそれは、この宣教師の熱意と言うよりも、宣教の主であり、派遣者である主イエスのの熱意なのだということを覚えました。

 何かのことで現状維持、自己満足に陥りやすい者にとって、この箇所は大きく挑戦し、迫ってくるのです。

*1941年5−6月にクルージュからアウシュビッツに連れて行かれた18,000人のユダヤ人のためのモニュメント


キリストでさえ

2016年11月26日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 15章1−13節

 濃い霧の中でも時間どおりに飛行機は離陸して、昼過ぎには帰宅することができました。一週間ぶりに町歩きをすると、あちこちの家にクリスマスのイルミネーションが輝いています。今度の日曜日が待降節(アドヴェント)の始まりです。

 人が二人以上集まるところでは、違いが問題になることがしばしばです。この箇所でも、力の強い人と力の弱い人、信仰の強い人と信仰の弱い人、異邦人とユダヤ人などが並べられています。違うのだからいっしょにやれないというのは一つの方向ですが、違うのだけれどもいっしょにやっていこうという道があります。

 12章以降でパウロはおもに、イエスをキリストだと信じる人の間に起こる問題に立ち向かっています。違う人同士がいっしょにやっていくのは決して簡単なことではないけれども、そのように歩むことができるなら、それが教会の姿なのだと勧めているように思えます。

 いっしょに生きていくためには、イエス・キリストが模範だ、とパウロは書いています。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせるようなことはなさならなかった」ということばを覚えました。「ましてや私たちは…」という意味を込めてパウロは書いているように響きます。

 違っているけれどもいっしょにいる、違っているけれども心を一つにして神をほめたたえる…、ここに教会の豊かさがあるのだと思います。

*木曜の夜の家庭集会後にみんなでいただきました。ごちそうさま!


決心しなさい

2016年11月25日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 14章13−23節

 昨晩は、滞在している場所から50キロメートルほど北にある、村の教会の夜の家庭集会におじゃましました。濃い霧のために到着が遅れましたが、その教会の責任をもっている方が、寒さの中を、幹線道路からの入口で40分も待っていてくださいました。午後6時に始まった集会に私たちが着いたのは6時45分ごろになってしまいましたが、20人ぐらいの方がお年寄りから赤ちゃんまで集っておられました。集会が終わったのは夜の9時過ぎでしたが、素晴らしい時を過ごすことができました。

 濃い霧のために、明日の早朝のフライトはどうなるのでしょうか?

 本章の後半でパウロは、兄弟にとって妨げやつまずきになるものを置かないように決心するようにと勧めています。具体的には、前半から述べている食べ物についての規定を守る守らないかということでした。ユダヤ人には様々な食物規定があり、異邦人はそれを持ちませんでした。ですから、主にある教会の交わりの中で、ある食べ物を食べる人と食べない人とがいたのです。それが原因で、互いにさばき合うという課題がありました。

 「決心しなさい」ということばを心に留めました。自分には権利がある、でもあの人のことを覚えてその権利を行使しないように心を定めるのです。それは、その兄弟姉妹への愛に基づく決心です。それはどんなにか教会をキリストのからだにふさわしいものにする決心なのでしょうか。それは、誰かに決心を求めるのではなくて、自分に…です。


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