みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

抑えきれずに…

2024年02月29日 | 詩篇

詩篇 40篇

 水曜日午前の祈祷会はいわゆる「対面」で行われ、懐かしい方々といっしょに聖書を読み祈りました。そして水曜日夜の祈祷会は「オンライン」での開催。昨晩は大人が8名、子どもが6名が参加しました。大人も子どもも神に感謝することを一つ、祈ってほしいことを一つ挙げてから、互いのために祈ります。将来への希望に満ちた祈祷会です。

 この時ダビデは、すぐにでも神の助けを必要としていました。本篇は「私は切に 主を待ち望んだ」から始まります。事態は彼にとって緊迫していたのです。そして主は彼の祈りを聞いて即座に助けられたのです。さらに、彼を助けてくださった主は、ダビデの口に新しい歌を授けてくださったのです。

 ダビデは詩篇のうちのかなりの主への賛美を歌い上げているのですが、それは主が彼に新しい歌、ご自分への賛美を授けてくださったからです。「新しい」歌とは、いわゆる新曲、新しく唄う歌だけではなくて、日々新しくされた者が神をほめたたえることだと考えるならば、昔から歌われているものであったとしても、それは「新しい歌」なのだと、ここから考えました。

 9−10節に目を留めます。ダビデは、唇を押さえずに神の義を喜び知らせようとしています。39篇では沈黙を抑えきれずに神に願い求めたダビデが、そしてここでは、神への賛美を抑えきれずに神をほめたたえるダビデの姿があります。


あなたとともにいる旅人

2024年02月28日 | 詩篇

詩篇 39篇

 ほぼ10年ぶりに日帰り温泉を訪ねました。運営者が替わりましたが泉質は変わらず。平日でもあったので、入浴者は二人だけでした。

 口をしっかり閉じながら、ほっぺたがだんだんと膨らみ、ついに我慢できずに声を出してしまうような顔を思い浮かべながら本篇を読みました。

 1節を読んで、新約聖書ヤコブの手紙とのつながりを思いました。ヤコブの手紙3章2節に「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」とあります。

 ダビデも、ことばの罪の大きさを自覚していました。悪しき者の前で神がお望みにならないことばを口走ってしまうことを恐れていたのかもしれません。ですから彼は沈黙を続けたのです。けれども、黙っていればよいということでもありません。2節に「良いことにさえも沈黙した」とあります。

 興味深いのは、沈黙を破って誰に何を尋ねたかです。ダビデは自分の齢がどれだけかを知らせてほしいと神に願いました。自分のいのちのはかなさを知りながらも、いのちを与え保ち、そしてこの世から取り去られるお方に聴こうとしたのです。

 12節に「私は あなたとともにいる旅人」とあります。地上が神の民の終の住み処ではないということをここから改めて覚えます。戻るべき家があるからこその旅だと言われます。「あなたとともにいる旅人」として今日も歩みます。


主よ 私の救いよ

2024年02月27日 | 詩篇

詩篇 38篇

 風の強い月曜日。訪ねてくれた兄弟夫妻といろいろ話ができました。一ヶ月間の一時帰国もおよそ半分です。あっという間に終わりそうです。

 「みことばの光」では、しばらくマタイの福音書を読み進めてきましたが、2月の終わりの三日間は詩篇を味わいます。

 38篇の表題が「ダビデの賛歌」とあります。これほどまでダビデが神の激しい怒りに会う出来事といえば、ウリヤの妻バテ・シェバと道ならぬ関係を持ち、挙げ句の果てにウリヤを殺してしまったことを思います。

 ダビデの人生における最大の汚点だと言えるこの出来事は、サムエル記第二11−12章に記され、罪を悔い改めるダビデの祈りで知られているのは詩篇51篇です。本篇からは、罪を犯したダビデの孤独が伝わってきます。

 11節に目が留まります。罪のために神の憤りを身に受けるダビデのことを、愛する者、友、近親者は遠く離れて見ているだけなのです。犯した罪の結果はこのようにして自分自身が身に負わなければならないのですが、あまりにも孤独な姿がここには映し出されています。さらに、ダビデの敵たちはこの時とばかりに、彼を追いやろうと企ててさえいます。

 神の前に罪を犯したダビデは、神にあわれみを乞い願います。ここに、罪人のなすべき生き方があります。神に罪を犯した彼は、神を待ち望むのです。どんなに神を悲しませ、怒らせることをしても、ダビデは自分と神とを「私」と「あなた」と呼びます。

 神を悲しませ、怒らせるようなことをしたときこそ、「主よ 私の救いよ」と助けを願い求めるのだという、促しがここにあります。


神のものは神に

2024年02月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章15−22節

 日曜日は、私たちがクリスチャンとしての歩みを始めた教会の礼拝に出席しました。冷たい雨の降る日でしたが、ともに礼拝をし、礼拝後はうどんをみんなで食べて体も温まりました。朝には、遅刻してはならないと早めに新宿に着き、美味しいモーニングを…。店の名前がドイツ語なので親しみが湧きました。

 今日の箇所は、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に…」というイエスのことばで知られています。事の初めは、パリサイ人たちがイエスを罠にかけようとしてヘロデ党の者たちと結託したことです。本日の「みことばの光」が書くように、普段双方は水と油のように反発し合っています。ところが、イエスという共通の「敵」がいることによって、彼らはいっしょになってイエスへの質問を仕掛けたのです。

 どちらを答えてもイエスを追い込むような質問をしたのですが、彼らの目論見どおりには行きませんでした。21節のイエスのことばには、現代に通じる大切な原則があります。

 それとともに、このイエスの答えが、「カエサルのものはカエサルに」ということばが強調されて受け取られているのではないかと考えています。神のものを神に返しているのかと問われます。金銭はもちろんのこと、私たちの生活、人生においてなのだということに、気づかされることばです。


誰を恐れて

2024年02月24日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章33−46節

 数日前とは打って変わって、気温の低い日が続きます。そのようななかで病院へ。今回は入院しているお姉ちゃんの弟と妹との久しぶりの再会です。面会は許されていませんが、届けものを渡すというタイミングでちょっとだけ、廊下で会うことができるのです。毎日画面越しに会ってはいるのですが、実際に手を握ったりするのは格別だったと思います。

 権威をめぐって迫ってきた当時の権威者たちに、イエスは二つ目のたとえを話されました。このたとえは、これから祭司長たちがイエスに何をするのかの予告でもあります。このたとえでは、登場人物の特定を間違えずにする必要があります。本日の「みことばの光」には、主人は神を、ぶどう園はイスラエルを、しもべたちは預言者たち、息子は主イエスを、そして悪い農夫たちとは祭司長たちやパリサイ人をたとえています。

 主人が今度こそとの思いを込めて送ったにもかかわらず、息子は悪い農夫たちに殺されてしまう……、これは祭司長たちがイエスを殺すということです。

 40−41節に目を留めます。イエスがぶどう園の主人はその農夫たちをどうするかと訪ねた時、この時点で自分たちが悪い農夫にたとえられているとは気づかない祭司長たちは、もっともな答えを示しています。

 しかし、そのあとのイエスのことばを聞いて、彼らは憤ります。「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」とイエスが言われたからです。自分たちこそ神の国にもっとも近いと考えていたのに、イエスはそうではないと断言されたからです。

 最後の45節は、祭司長たちが本当は何を恐れていたのかを明らかにしています。彼らは神への恐れをどこかに追いやっていたのです。

 

 *マタイ21章23−32節について、読者のお一人から、イエスがたとえた「兄」と「弟」についてお問い合わせをいただきました。「みことばの光」では兄を取税人や遊女たちであり、祭司長たちは弟だとあったが、逆だと考えていた…とのことでした。お問い合わせありがとうございます。「みことばの光」そして本ブログをお用いいただきありがとうございます。

 31節で、「兄です」と祭司長や長老たちが答えたとき、イエスは取税人や遊女たちが先に神の国に入っていると言っておられます。一方でイエスは、行くと言って結局行かなかった弟の姿に祭司長たちを重ねているのだと考えることができます。ですから、ここでは取税人や遊女たちが兄にたとえられ、祭司長たちが弟にたとえられていると理解することができます。

 


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