みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

死にて葬られ

2023年04月08日 | マルコの福音書

マルコの福音書 15章33−47節

 聖金曜日の昨日はスーパーもお休み。川沿いの道に、たくさんの人の歩く姿が見られます。その中に私たちもいました。

 1月から読み進めてきたマルコの福音書、教会暦に合わせて今年のイースターが最終章を読むように組まれています。イエスの十字架への道をゆっくりとたどることができました。この箇所は、イエスの十字架での死、埋葬の場面です。

 ここには、「大声」ということばが34節、そして37節にあります。マルコは37節についてイエスが大声で何を言ったのかを記しません。ヨハネの福音書ではそれは「完了した」という叫びだったと明らかにしています。そして、完了したとの叫びとともにイエスが息を引き取られたその時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。何が完了したのかを象徴する出来事です。イエスの十字架の死は、神と人とを隔てている壁を裂いたのです。

 埋葬の場面でのアリマタヤのヨセフの姿に目が留まります。彼は「勇気を出して」ピラトにイエスの体の下げ渡しを願い出ました。マタイは彼について「アリマタヤ出身で金持ち」で「イエスの弟子になっていた」と書いています。ルカは「議員の一人で、善良で正しい人」さらに「議員たちの計画や行動には同意していなかった」と描き、ヨハネは「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と記しています。

 彼はイエスが死んだ後で、自分がイエスの弟子であることを明らかにしました。時すでに遅し……でしょうか。そうではないと私は思います。イエスの体を、まだ使われていなかった自分の墓に納めるという務めをしたのですから…。もちろん彼も、イエスが復活するなどということは考えてもいなかったことでしょう。

 使徒信条の「死にて葬られ……」ということばを思います。


十字架への道

2023年04月07日 | マルコの福音書

マルコの福音書 15章16−32節

 歯痛があるので歯医者さんに受診。とりあえず痛み止めを処方していただきました。待合室で旅の月刊誌をめくっていましたら、当地の特集も。同じ州にこんな素敵な場所があるのかと、気づかされました。訪ねてみようと思います。

 今日はキリストが十字架にかかられた「受難日」、当地では聖金曜日と言います。イエスは処刑されるために、ピラトからローマ兵の手に渡されました。そこでイエスが味わったのは侮辱でした。「ユダヤ人の王」が何を意味するのかを知らない兵士たちは、その称号をイエスを馬鹿にするために使いました。ここに、イザヤが語った苦難のしもべについての預言が実現します。

 「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」イザヤ書53章7節

 ここでのイエスの姿からは、ちっぽけなプライドを守るために、すぐに牙をむいて反論し攻撃しようとして構える自分の心となんと違うものだろうかと読むたびに思わされます。そして、イエスはこの仕打ちをだれのために耐えられたのかと問うならば、「私たちの」と一括りにすることなく「私の」ためだったのです。

 処刑場であるゴルゴタまでの道のりはまた、十字架を背負うイエスと人々との出会いの場でもありました。イエスで遊んだ兵士たち、十字架を突如として背負わされたシモン、一緒に十字架に架けられた二人の強盗、通りすがりの人々、そして十字架につけることに「成功した」祭司長たち、律法学者たち。どの人々にとっても、イエスの十字架はそれと向き合う人、つまりイエスの十字架は私のためだとする者にとっては救いへの道でした。

 そしてそれは、今も、これからも変わりません。


ユダヤ人の王

2023年04月06日 | マルコの福音書

マルコの福音書 15章1−15節

 日本で大変お世話になった方と、久しぶりにオンラインでお話ができました。当地を訪ねられるとのこと。この夏の楽しみが増えました。

 ユダヤ人の裁判によって「死に値する」と断じられたイエスは、ローマ総督ピラトのところに連れて来られました。「自分をキリストだと主張した」というのは、ユダヤ人にとっては神を冒瀆する罪でした。しかし、彼らはそれだけではイエスを死刑にする権限を持ち合わせていなかったので、総督のところに連れて来られたのです。

 この箇所でピラトはイエスについて「ユダヤ人の王」ということばを繰り返しています。これがユダヤ人がピラトは死に値するとローマ側に示した理由でした。つまり、ローマ皇帝に反逆しているということでした。もちろん、これはでっち上げの罪状。ピラトもこのことばをまともに用いているとは思えません。しかし「ユダヤ人の王」との罪状書きは、イエスについての真理を明らかにしています。

 ここでピラトは、イエスを釈放するためにあれこれ動いているように見えます。けれども、皮肉にも彼の名は代々の教会が自分たちの信仰告白として唱え続けてきた「使徒信条」の中に納められています。読み方によって、ピラトはほんのわずかイエスと関わっただけなのに、いつも「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け…」と言われ続けるという「同情」さえあるかもしれません。「ポンテオ・ピラト」の代わりに心で自分の名に置き換えるのだという文章を読んだことがあります。

 以来私はそのような思いで唱えます。


一人だけ

2023年04月05日 | マルコの福音書

マルコの福音書 14章53−72節

 火曜日朝、オンラインでのデボーションに入れていただきました。イギリス、ドイツ、そしてチェコに住む人々が、「みことばの光」を片手に、週に一度一緒に聖書を読み、分かち合い、そして祈り合っています。私たちは月一度の参加です。聖書を一人で読むのは基本ですが、一緒に読むと新しい気づきが与えられます。

 イエスの裁判の場面です。この裁判は初めから不当なものだというのは、55節で明らかにされます。「イエスを死刑にするため」に開かれたからです。私たちの社会で、最初から死刑という判決に向かって裁判を行うということはないでしょう。しかし、イエスを捕まえた人々には、結論ができあがっていました。

 その結論に向けて、裁判であるからには証言が大きな意味を持つのですが、イエスの裁判では証言が一致しません。そうであるなら無罪放免です。しかし、あくまでも死刑にしたいと強く願う人々は、一つの質問をします。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」と……。

 「わたしが、それです」とのイエスのことばを聞いた大祭司は、これでイエスを殺せると心で安堵したのではないでしょうか。彼は証人などいらないと裁判の基本をゆがめます。

 後半はペテロです。彼は、もうぼろぼろです。イエスのためならいのちも捨てますと言いながら、数時間後にはその関係をきっぱりと否定するのです。こんなにみじめな経験はないでしょう。何一つ自己弁護できないほど打ちのめされるのです。

 ここには、人間としてのあり方をゆがめた人々が次々に登場します。その中で一人だけ、真理と真実を貫いたのは、イエス一人だけでした。

「私たちが真実でなくても、 キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」とのⅡテモテ2章13節のことばが心に湧いて来ます。


近づく者、逃げる者

2023年04月04日 | マルコの福音書

マルコの福音書 14章43−52節

 日曜日とは打って変わって、昨日は空の美しい一日でした。でも、空気の冷たさはなお残っています。

 イエス逮捕の場面です。

 43節の「十二人の一人のユダ」ということばが目に留まります。「十二人」とはイエスの十二弟子のことです。マルコはユダを「十二人の一人」として紹介しています。このことばは、次の節にあるようにユダがイエスを裏切ったことを明らかにしています。

 それでは、他の十一人には何も問題がなかったのでしょうか。そうではないということが、この時ここで何が起こったかを知ることでわかります。剣を抜いて大祭司のしもべに斬りかかったのが誰かについて、マルコは何も書いていません。しかし、ヨハネの福音書18章10節ではそれがシモン・ペテロだったと明らかにしています。

 シモンはイエスを守ろうとしたのでしょうか。確かにそのためだったと思われます。けれども、その前にシモンがどんな行動をしたのかを考えると、その場で何が起こっているのかに恐れるあまり、剣を抜いたとも考えられます。その前に「霊は燃えていても肉は弱いのです」というイエスのことばが、ペテロの行動を予想しているかのようです。

 不当な逮捕であるにもかかわらず堂々と対処しておられるイエスを見捨てて、弟子たちは逃げてしまいました。50節に「皆は」とあります。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」と言い切ったペテロのことばを思います。

 私も「皆」の一人です。


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