みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

全地の王にほめ歌を

2019年01月31日 | 詩篇

詩篇 47篇

 雪模様の一日でしたが、少し山のほうの町を訪ねるとさらに雪が….わずか10キロ程度でずいぶん違うものです。ちょっと他のことを考えていると前の車に追突、というような瞬間がありました。幸いブレーキがきいてホッとしたのですが、要注意です。

 この詩篇の主題は、全地の王である主なる神をほめたたえよ、です。

 2節に「まことに、いと高き方主は恐るべき方。全地を治める 大いなる王」とあります。そのとおりです。けれども、自分の周りを、この世を見るときに、心の片隅にでもほんとうにそうなのだろうか、との思いが湧き上がります。ほんとうに神は全地を治めておられるのだろうか、それでは、あの問題はどうか、この出来事はどうかとの疑問が湧いてきた時に、神を信じる者は何とか納得のいく説明をしようとします。神に代わって弁証を試みるのです。

 けれども、疑問が残ります。それでは、神は全地の王ではない、全地を治めてはおられないということになるのでしょうか。たとえ、そのように思われるような出来事、事がらの中にあったとしても、そのような疑問も含めて神は全地を治める大いなる王なのだとする、それを受け入れるのが信仰者なのではないかという思いを抱きます。

 きょうの「みことばの光」に、「クリスチャンは賛美の民なのである」という一言があります。傷つき、痛み、悲しみの中に投げ込まれて、そこに神が治めておられるのだろうかという思いに駆られるときであっても、それらすべてをひっくるめて「まことに、いと高き方主は恐るべき方。全地を治める 大いなる王」として神をたたえるのです。


やめよ

2019年01月30日 | 詩篇

詩篇 46篇

 詩篇46篇と結びつくのは、ルターです。宗教改革者の彼は、この詩篇から「神はわがやぐら」という多くの人々に親しまれている讃美歌を生み出しました。

 ここには、私たちを恐れさせるものが次々に出てきます。まず天変地異です。2−3節は災害の多い日本に住む人々の心に迫ります。それから国と国との争いです。歴史は数え切れないほどの戦いを経ながら、今でもなお克服できないでいます。戦後70年以上日本には戦争がありませんが、だからといって平和だとは言えません。国と国、人と人との緊張はしょっちゅう私たちの心をかき乱します。

 本篇は、そのように心を乱されるような中にある私たちに、静かにいるようにと促しています。神が戦ってくださるから、神が支えてくださるからです。「神は夜明けまでに これを助けられる」とは、私たちの期待をはるかに超えて、神はご自分の民を守り助けてくださるということです。ですから、「主のみわざを見よ」とのことばが力をもって迫ります。

 そして心に留めたのは、10節の「やめよ。知れ」ということばです。そわそわ動かず、わなわな震えずに、やめよと言うのです。「やめよ」と訳されていることばを新共同訳聖書は「力を捨てよ」と訳します。自分の力でがんばって解決するのをやめにして、神が何をなさるのかをしっかりと見届けよう、神に信頼して…、と響いてきます。けれども、それでもがんばってしまう、不信仰な私がいることにも気づかされます。


父の家を忘れよ

2019年01月29日 | 詩篇

詩篇 45篇

 昨日、ヴィザが更新されました。予め「3年の滞在が認められるでしょう」と言われていたので、そのつもりで役所に行ってみると、「4年差し上げましょう」ということになりました。神さまからの贈り物をいただいた! と感謝しています。

 結婚式でスポットライトが当たるのは花婿と花嫁。この詩篇は王の結婚に際して歌われたものだとありますが、やはり初めの部分では花婿とである王の麗しさ、優しさ、威厳と威光、力がたたえられます。衣装や飾り物だけでなくて、王の人格がたたえられているのです。それは、神の祝福と油注ぎに基づくのだというのです。

 この王と結婚する娘の心得は、10、11節に示されています。「あなたの民と あなたの父の家を忘れよ」というのは厳しくも大切な王妃への戒め。ここを読むと、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる…」という創世記2章24節のことばを思います。

 この詩篇はキリストと教会との関係を預言してもいます。10、11節は、花婿であるキリストを切に思い慕う私たちの姿を映し出しています。キリストを主とすることは、これほどのことなのだ、他の何ものにはるかにまさることなのだという思いが自分にあるのか、と問われます。多くの方に親しまれている「キリストには代えられません」という賛美歌の歌詞を口にしています。

 陽は少しずつ長くなってきましたが、どんよりとした空が続きます。春が待ち遠しいですね。


それでも…

2019年01月28日 | 詩篇

詩篇 44篇

 日曜日は、ルーマニアからの宣教師の先生が礼拝の宣教をしてくださいました。心を深く探られる力強い解き明かしに感謝。礼拝後、皆さんといっしょに美味しいものをいただきました。その中にはこんなものも…。

 本篇を順番にまとめてみると、次のようになるでしょうか。

 神が昔になさったみわざを聞いたと歌う私
 弓に頼らず、剣も救わないとする私に勝利を命じてほしいと願う私。そして、主は私を救ってくださった。
 それなのに、あなたは私を退け、卑しめられた。…
 しかし、私たちはあなたを忘れず、あなたの契約を無にしなかった。…私たちの歩みはあなたの御力それなかった。
 「起きてください」「目を覚ましてください」「立ち上がって 私たちをお助けください」と願う私

 この詩篇の作者は、今どこにいるのでしょうか。「それなのに、あなたは私を退け、卑しめられた」という心境なのです。自分たちの父祖たちは神のすばらしいみわざを見た。弓や剣に頼らない私に、主は勝利を与えてくださった。しかし、私は今、敵によって敗北を喫しているのです。信仰者だからといって、常に物事が順調にいくわけはない、「神よどうして」という時もあるのです。

 そのような時にでも、作者は神の前に誠実に生きようとするのです。この姿に教えられます。だからといってすぐに助けが来るわけではありません。神が眠っているように思える時です。もちろん、神はまどろむこと眠ることもないお方だとは理屈ではわかっているのです。けれども、神が何もなさらないと感じるのです。

 あきらめますか。捨てますか。いいえ、神に願い続けます。それがこの詩篇から伝わるメッセージなのです。


なおも神をほめたたえる

2019年01月26日 | 詩篇

詩篇 42篇

 年末以来使用できなかったIH調理器が、ついに使えるようになりました。昨日業者さんが来て新しい物と交換してくれたのです。ようやく「キャンプ生活」から抜け出すことができました。嬉しいので、きょうの一枚は新品のこれ。

 「みことばの光」では、詩篇五巻を1年ずつ読んでいくのですが、今年は第2巻。その始まりは多くの人に親しまれ、とくに心うなだれている人に光を投じてきた42篇です。

 声を出して読んでみてまず、人のもろさを思いました。詩人は、「おまえの神はどこにいるのか」ということばをずっと聞かされてきてすっかりまいってしまったのです。誰かの一言というのは、人を励ましもしますし、反対に失望の底に落としもします。神を信じて、ともに礼拝して歩んできた詩人に、「神がいるなら見せてみろ」「神を信じているのになんという有様か」などという罵声(ばせい)が浴びせられ続けたのです。これは堪(こた)えます。

 そんな経験が何度もあるなぁ、と振り返って思います。

 けれども幸いなのは、神を信じてすべてが順調にいくことではなくて、そんなふうに落ち込み、たましいが渇き切っているときでも、いや、そのような時だからこそ、「神を待ち望め」とたましいに語りかけること、そして、「私はなおも神をほめたたえる」との思いを抱けることではないでしょうか。

 本篇は43篇とつながりがあります。42-43篇に三度、「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ 私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」と繰り返します。彼はたましいの渇きの中で、下に下にと落そうとする力を振り払うかのように、上を見上げるのです。

 これが、信仰者に与えられた神からの恵みではないでしょうか。


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