オバデヤ書
アドヴェント第四日曜日、クリスマス礼拝を持ちました。最初の礼拝では、いつになく多くの方が集まって一人のユースの洗礼を祝いました。次の礼拝では子どもたちの朗読劇公演を観ることができました。まあ上手なこと! 終わった後、お友だちから折り紙に書いたお便りをいただきました。10月31日に最初の顔合わせをした時のルターの話を覚えていてくれて、「マルチン・ルターのお話をありがとうございました」と書いてありました。宝物をいただきました。
オバデヤ書は1章だけ。旧約聖書で最も短い預言です。さらに、この書はイスラエルやユダではなく、エドムについての預言だというのがユニークです。エドムはイスラエルとは死海を挟んだ東南に位置し、イサクの双子の子エサウの子孫たちです。この書では、エドムの高ぶりと冷酷さが神のさばきに会うことが語られます。
高ぶりの理由は、誰かと何かと比較して自分たちが優位にあるということが多いと思うのです。エドムの比較対象はやはり、イスラエルだったのではないでしょうか。預言者オバデヤがいつごろ活動したのかについては諸説あって確定しませんが、仮に時代背景がバビロンによるエルサレム破壊だとしたら、エサウとヤコブの確執から千数百年経っていることになります。
エドムの父祖エサウはヤコブによって父からの祝福を妨げられました。以来エドムはイスラエルと緊張関係にあり、イスラエルと何かについて競うというものが生き甲斐のようなものだったのではないかと、想像してしまいます。そして、エルサレムがバビロンに滅ぼされることになった時に、混乱に乗じてエルサレムに略奪に入り、またエルサレムから脱出しようとする今で言うなら難民の逃げ道を塞ぐようなことをしたのです。15節のことばに目が留まります。「自分がしたように、自分にもされる。」
自分は神のさばきの前に立てるのだろうかとの問いかけをおぼえました。人としておいでになり、十字架にかかられた主イエスがおられなければ、到底立てない者なのだということを確認させられる書です。