みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

したようにされる

2021年12月20日 | オバデヤ書

オバデヤ書

 アドヴェント第四日曜日、クリスマス礼拝を持ちました。最初の礼拝では、いつになく多くの方が集まって一人のユースの洗礼を祝いました。次の礼拝では子どもたちの朗読劇公演を観ることができました。まあ上手なこと! 終わった後、お友だちから折り紙に書いたお便りをいただきました。10月31日に最初の顔合わせをした時のルターの話を覚えていてくれて、「マルチン・ルターのお話をありがとうございました」と書いてありました。宝物をいただきました。

 オバデヤ書は1章だけ。旧約聖書で最も短い預言です。さらに、この書はイスラエルやユダではなく、エドムについての預言だというのがユニークです。エドムはイスラエルとは死海を挟んだ東南に位置し、イサクの双子の子エサウの子孫たちです。この書では、エドムの高ぶりと冷酷さが神のさばきに会うことが語られます。

 高ぶりの理由は、誰かと何かと比較して自分たちが優位にあるということが多いと思うのです。エドムの比較対象はやはり、イスラエルだったのではないでしょうか。預言者オバデヤがいつごろ活動したのかについては諸説あって確定しませんが、仮に時代背景がバビロンによるエルサレム破壊だとしたら、エサウとヤコブの確執から千数百年経っていることになります。

 エドムの父祖エサウはヤコブによって父からの祝福を妨げられました。以来エドムはイスラエルと緊張関係にあり、イスラエルと何かについて競うというものが生き甲斐のようなものだったのではないかと、想像してしまいます。そして、エルサレムがバビロンに滅ぼされることになった時に、混乱に乗じてエルサレムに略奪に入り、またエルサレムから脱出しようとする今で言うなら難民の逃げ道を塞ぐようなことをしたのです。15節のことばに目が留まります。「自分がしたように、自分にもされる。」

 自分は神のさばきの前に立てるのだろうかとの問いかけをおぼえました。人としておいでになり、十字架にかかられた主イエスがおられなければ、到底立てない者なのだということを確認させられる書です。


王権は主のものに

2016年12月26日 | オバデヤ書



 日曜日のクリスマス礼拝。すでに休暇で出かけている方もいるので集まった方は少なめでしたが、いっしょに救い主のご降誕を祝いました。帰り道は、道も空いていて静かなクリスマスの街でした。きょうから数日、出先から綴ることになります。写真からご想像ください。

 「みことばの光」にあるように、オバデヤ書はわずか一章の預言書。神のことばの鉾先はエドムに向けられています。エドムは、イサクの双子の息子のうちのエサウの子孫です。死海の東側がエドムの地。神はエサウをさばこうとしておられるのです。エドムが、兄弟国イスラエルに冷ややかにしていたことを問題にしておられるのです。

 心に留めたのは、21節の「王権は主のものとなる」ということば。
神はイスラエルの民にとってだけでなく、すべての民の主だということを覚えさせることばです。
今の混乱した世界の中でいつこのような約束が実現するのだろうかと思うのです。クリスマスは救い主のご降誕を覚える時であるとともに、このお方がやがて、いや、まもなく王としてこの世界においでになることを忘れないという時でもあります。「みことばの光」にあるように、「主イエスよ。来てください」と祈ります。


ただ、ながめているな

2011年12月19日 | オバデヤ書
オバデヤ書


 土曜日に、子ども英会話クラスのクリスマスパーティーがありました。Dsc00669いつも来ているメンバーはいろいろな用事があって4人しか集まりませんでしたが、お友だちやお家の片などがきてくれて全部で30人以上の大盛況でした。写真は手作りのピラミッド型クリスマスケーキ。そのおいしかったこと! とっても大きなものでしたがペロリとお腹に納まってしまいました。

 「みことばの光」による聖書通読計画では、旧新約聖書を5年に一度読むことになっています。創世記などの長い書物はしばらくの間読み続けますが、オバデヤ書はたった一日で読み終えてしまいます。5年間1826日のうちの1日だけなのです、オバデヤ書を読むのは! …と考えると、なんとなくオバデヤ書がいとおしく感じられます。

 オバデヤ書は、「…読む前に」にあるようにイスラエルの隣国であるエドムへの神のさばきの宣告です。
 この書を読んでエドムについて思うのは、兄弟国である隣国イスラエルに冷淡な態度をとり続け、その弱みにつけ込んで「漁夫の利」を得ようとする姿勢です。

 心に留まったのは、「あなたはただ、ながめているな」ということば。傍観も神が悲しまれることなのだということを思わせられます。けれどもこれはなかなか難しい。生活の中で「見て見ぬふり」というのは意外と多いのです。エドムのように、「岩の裂け目に住み、高いところを住いとし」て「高みの見物」を決め込んで自分だけは安全だと、居続けたいのです。
 
 改めて、傍観して入られないと、越えられない壁を打ち破ってこの世においでになり、私たちと同じようになられたイエス・キリストを思います。





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