みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主イエスよ、来てください

2017年12月23日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 22章12−21節

 木曜日の夜、「イスラエルの夕べ」に加えていただきました。1サムエル17章のダビデとゴリヤテの戦いを描いた曲をチェンバロの音色で味わい、ダビデが用いた石投げの実演があり(実際に石は投げませんでしたが)、イスラエルを旅した方の印象を聞きました。さらに、救い主誕生を預言するイザヤ書9章6、7節をフランス語、ドイツ語、日本語、そしてヘブル語で朗読し、参加した人たちのお腹が鳴り出そうとするタイミングで、イスラエルのおいしい食べ物がずらりと並びました。

 中には、これと引き換えにエサウが長子の権利をヤコブに与えることになったレンズ豆も! エサウの気持ちがわかる、と思わず口走ってしまいました。

 ヨハネの黙示録はいよいよきょうで読了です。今回の通読ほど、誰が驚くばかりの神の御前に立つことができるだろうかと、自分のこれから先のことを深く考えさせられたことはなかったです。最後の部分で耳に響くのは、特に「見よ。わたしはすぐに来る」とのキリストのことば。「みことばの光」が書くように、「来てください」ということばが呼応しています。

 散らかっている部屋に突然お客様がいらしたら、ちょっと慌てます。キリストは「すぐに来る」とおっしゃいます。けれども、「いつ」とは明らかにされません。突然おいでになるのです。ですから、いつおいでになっても良いように備えている必要があるのです。「主よ。今は困ります」とではなく、「来てください」と言えるものでありたいというのが、この書の終わりに抱く思いです。

 

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時が近いから

2017年12月22日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 22章1−11節

 11月27日から開かれていた当地のクリスマス市(いち)はきょうで終わりです。前にも書きましたが、この時期はほとんど毎日曇天が続きますので、クリスマス市の輝きをありがたいと思っている人も多いのではないでしょうか。

 ヨハネの黙示録はいよいよ最終章です。きょうの「みことばの光」が書くように、1節からは「まもなくかなたの流れのそばで…」という讃美歌が心に響いてきます。この流れは「いのちの水の川」。神と子羊の御座から出る水はすべてのものにいのちをもたらすのです。イスラエルを旅しますと、南部の荒涼たる荒野と北部の緑豊かな土地とが対照的です。しかも、数時間で荒れ野から潤いの平野へと景色が変わります。水がどれほど大切なものかを伝えてくれる眺めです。

 この都にないものが書かれています。のろわれるものと夜です。「のろい」とは用いたくないことばの一つですが、神との関係が破綻しているところから生じるものです。そして、人との間に軋轢(あつれき)があり、恨(うら)みやのろいがこころに満ちます。この世界には、そのようなものが渦巻いています。けれども、聖なる都(新しいエルサレム)にはそのようなものがありません。このことだけを静かに考えても、なんとすばらしいことだろうかと思わずにいられません。

 「時が近いから」ということばに目が留まります。ここに描かれていることが実現するのは、そんなに遠い先ではない、「すぐに起こるべきこと」なのだとの促しでもあります。「見よ。わたしはすぐに来る」とのことばもあります。「時が近いから」とのことばを、何度も繰り返したいと思います。

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着飾った花嫁

2017年12月21日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 21章9−27節

 昨年購入した多機能型プリンタのコピーとスキャナーが壊れたので、修理に来てくれました。感光体ユニットが壊れたのではないかと思っていたのですが、そうでした。新しいユニットと取り替えて修理完了となりました。部品を変えて…ということではなくて、ユニットの交換なのですね。プリンタは故障してもコピーや印刷ができないぐらいで済みますが、新幹線の台車が破断寸前だったと聞くと、ぞっとします。新しい天と新しい地の「新しさ」とは、時とともに劣化し、古びてしまうものではありません。

 ここには、子羊の妻である花嫁の着飾った様子が描かれています。花嫁とは「聖なる都エルサレム」のこと。花嫁は神の栄光でまぶしく輝き、この世界にある宝石で言い表すとしたらこうだ! というほど装っています。ですから、それらのことばで形容してもし尽くせないほど着飾っているのです。たとえば、十二の門が「それぞれ一つの真珠からできていた」とありますが、そのような真珠は今の世界にはありません。

 この都には神ご自身と子羊がおいでになるのですから、神殿は必要がありません。

 エルサレムには、ソロモンの神殿から始まる三つの神殿が建てられましたが、そのどれも今は存在しません。新約聖書の時代には、子羊なるキリストを信じる一人一人が神の御霊がお住いになる宮であるとされていました。しかし、この世界では私たちの罪ゆえに(十字架の贖いによって赦されてはいますが)、そのからだは不完全なものなのです。

 「神殿が都の中にない」ということばは、「あるべきものがない」のではなく、あるべきお方がおられるという都の完成、礼拝の完成を、高らかに宣言しているのです。このような所におらせてもらえるのは誰なのかとの問いが湧いてきます。

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いのちの書に

2017年12月19日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 20章

 本章にも続けて、「私は…見た」が5回繰り返され、これが舞台で言えば場面の切り替わりのような役割をしていると取ることもできます。

 さらに1節から7節には「千年」ということばが6回繰り返されます。「千年」の間サタンが底知れる所に投げ込まれて鍵をかけられ封印されて出て来れず、その間殉教をしたキリスト者たちが生き返って神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間王として治めることが記されています。「千年」が実際の年数を指すのか、それとも「みことばの光」が書くように象徴的な数字なのかについては、意見が分かれるところです。

 黙示録を読む中で悩むのは、ヨハネが見たことが現実とかけ離れているので理解しがたいことではないでしょうか。そのために、いろいろな考えが出てきます。けれども、聖書が記していないことは、神が私たちに隠しておられることだとして受け止めたいと思います。それはもちろん、聖書をよく学ぶということと矛盾する態度ではありません。

 この期間はやがてサタンが解き放たれることによって終わりが来ます。解き放たれたサタンは地の王たちをそそのかして神に戦いを挑みますが、天からの火によって完全に滅ぼされるのです。黙示録の中で重ねられてきた戦いの終焉です。CS・ルイスによるナルニヤ国物語の「最後の戦い」という最終巻を思い出しました。

 そして、「最後の審判」の時がきます。

 心に留めたのは、「いのちの書に記されていない者はみな…」ということば。自分の名前はどうなのだろうかとの不安を抱かせる厳粛なことばです。特に、「彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた」とのことばは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」(マタイ7章21節)とのキリストのことばと呼応するように響きます。

 「主よ。あなたの十字架の愛に感謝します。私の罪のために十字架で罪の贖いを成し遂げ、あなたを信じるこの小さき者の名を『いのちの書』に記してくださいました。」(きょうの「みことばの光」の「祈り」)

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王の王、主の主

2017年12月18日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 19章11−21節

 一足お先のクリスマス礼拝、そしてお祝い会が持たれました。たくさんの方々がお見えになり、また、子どもたちもチェロ、ピアノ、ギターの音をみんなに聞かせてくれました。いつもよりもずっと多い人と一緒に礼拝できる喜びを覚えるとともに、「神は私たちとともにおられる」幸いを感謝する時となりました。

 ヨハネの黙示録では「私は見た」ということばによって、新しい場面が目の前に広がります。この箇所では11節と17節、そして19節に「私は見た」が置かれています。11節から16節までには、白い馬に乗り、義をもってさばき、戦いをされる方のことが詳しく書かれています。ヨハネはすでにこの方の姿を見ているのですが、これほど細かく描くのは、彼が驚きをもって、細部に至るまでこの方を凝視したに違いないということが伝わってきます。

 一体この方はだれなのでしょうか。血に染まった衣をまとい、神のことばと呼ばれ、衣ともものところには、「王の王、主の主」という名が記されていたなどの姿から、イエス・キリストであることは明らかです。「王の王、主の主」ということばは、「みことばの光」が書くようにヘンデルの「メサイア」が思い浮かびます。

 昨日礼拝をした部屋には木で作られた馬小屋があり、「クリッペ」(飼い葉桶)が置いてありました。次の日曜日に子どもたちが生誕劇をするためのセッティングがなされていたのです。飼い葉桶にはイエスを表す人形がすでに置かれていました。ベツレヘムで握りつぶされたらいのちを落とすような現れをなさったお方が、やがての時には白い馬に乗り口からは鋭い剣を出してこの世界をさばき、獣や獣についていく者たちとの戦いをするのです。

 そして、戦いはこのお方の大勝利。このお方の側におらせていただける幸いをかみしめ、ふさわしく歩みたい……。

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2011-2018© Hiroshi Yabuki