みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主イエスよ、来てください

2022年12月23日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 22章12−21節

 このクリスマス休みに、何人かが日本に一時帰国しておられます。教会の礼拝は少し寂しくなりますが、この時期でなければ……という出会いも楽しみです。

 寂しいといえば、読んできたヨハネの黙示録も本日で終了。本欄で何度も書いてきたことですが、私にとっては信仰者たちに約束されている確かな希望を確信する機会でした。

 本日の箇所を読み、他の聖書で読んだことがあることばや出来事を思い浮かべました。14節の「門を通って……」ということばからは、「わたしは羊の門」と言われたヨハネの福音書10章7節を、17節からは、イエスとサマリアの女性との対話を思いました。

 この段落では主イエスが「わたしはすぐに来る」と繰り返され、それを聞いた者たちは「来てください」と繰り返しています。「来てください」が「すぐに来る」と約束しておられる方へのあるべき態度なのだということを改めて覚えます。「いや、来てもらっては困ります」では困ってしまいますね。

 アジアの七つの教会の最後に登場したラオディキアの教会は、「自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」だと主は指摘されました。「実は……」の理由は、教会の主であるイエスを戸の外に閉め出していたことにあります。しかも、そのことに気づかないのです。

 「わたしはすぐに来る」とのイエスの約束に、「アーメン」と、「すぐに来てください」と答えることができなかったとしたら、何を持っていても、何が整っていても、みじめで哀れで、貧しい……のです。

 イエスは16節でご自分を「輝く明けの明星」だと言っておられます。Die Nacht ist vorgedrungen(夜は更けた)という待降節の讃美歌は、次のような歌詞です。讃美歌21ー243に収められています。

 闇は深まり夜明けが近い、だから「明けの明星」をほめたたえよう。夜泣いた者をも賛美に加えて…。「明けの明星」はあなたの恐れや痛みを知り、心に留めておられるのだから。


時が近い

2022年12月22日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 22章1−11節

 イスラエルへの旅を催行するための準備を始めました。どのような旅にするのかを一緒に考えるのがわくわくする時でしょうか。フランクフルトのクリスマス・マルクトもきょうが最終日です。

 都の大通りの中央を流れる川は、両側にそれぞれ12の実をならせるいのちの木があることから「いのちの水の川」と呼ばれています。かつて預言者エゼキエルが見た新しい神殿の幻と重なります。あの時エゼキエルは、エルサレムの神殿の敷居の下から流れ出る水がやがて泳げるほどの川となり、両岸に多くの木があり、流れ込む死海には非常に多くの魚が棲むようになるとの光景を見ました。⇒エゼキエル書47章 それが新しい天と地との都において実現するのです。

 この箇所には、いくつかの「ない」があります。一つは3節の「もはや、のろわれるものは何もない」ということです。ここには祝福だけがあるのです。二つ目は「もはや夜がない」のです。神の光が常にその都の光となるからです。さらに、御使いを礼拝しようとしたヨハネに、御使いは「神(のみ)を礼拝しなさい」と伝えます。そして、この書の預言のことばを封じではならないとヨハネに命じます。時が近いのが理由です。

 「時が近い」ということばに目が留まります。眠っていないで目を覚ますようにとの促しを、ここから覚えます。


天から降って来る都

2022年12月21日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 21章9−27節

 寒さも緩み、歩いていると身体がほかほかする火曜日。買い物に出かけていざ到着という所で、財布を忘れてきたことに気づきました。家からかなりの距離の場所を戻り、出直しました。そのために、12月にしては随分と歩いた一日でした。

 ヨハネはついに、天から降りて来る聖なる都の幻を見るのです。しかも、彼は細部まで見ることができました。都は12の門と12の土台石のある城壁で囲まれています。神の使いが測り竿で都の大きさが測られるなどを考えると、とても想像できないような、誰も一度も見たことのない、訪れたことのない都でありながらも、リアリティが伝わってきます。

 さらに、ヨハネはこの都に神殿がないことを目撃します。地上のエルサレムにはある期間神が臨在を約束された神殿が建っていました。その理由について22節は「全能の神である主と子羊が、都の神殿だから…」と伝えます。

 25節の「都の門は一日中、決して閉じられない」とあります。夜がないからです。町を囲む城壁は夜になると閉ざされ、夜回りも配置され、不審者を通しません。しかし、神と子羊がこの都を照らす光なので、夜がないのです。

 27節は、ヨハネをはじめ、アジアの七つの教会にとってどれほどの慰めであり、また強い警告となったことでしょう。そして私にも、私たちにも……。


新しい天と新しい地

2022年12月20日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 21章1−8節

 通りやお店で出会い、挨拶を交わす方がわが家を訪ねてくださいました。暖房の温度をいつもよりも下げている部屋でしたが、温かな飲み物や美味しいお菓子とともに話に花が咲き、良い時間を持つことができました。

 今回、ヨハネの黙示録を読み進めてきて、キリスト者に与えられている確かな希望を確認することになりました。この書は、未来に対する恐れや不安をかき立てるものではないということを改めて教えられています。

 ここからヨハネは、キリストを信じる者に約束されている輝かしい未来を自分の目で見ます。ここで見る光景は、獣に支配されたこの世の権力によってパトモスに流された彼をどれほど喜ばせ、平安と希望とにあふれさせたことかと想像するのです。ここに明らかにされている新しい天と新しい地には、今の世界にあるものがなくなっています。それは、死であり、悲しみであり、嘆きの叫びであり、苦しみです。それらが少なくなるとか、和らぐということではありません。もはや過ぎ去って、なくなってしまうのです。

 5節の「見よ、わたしはすべてを新しくする」ということばに目が留まります。本日の「みことばの光」が書いているように、今の天と地とが改善される、改良される、更新されるのではありません。それらは過ぎ去って跡形もなくなるのです。神が過ぎ去らせるのです。

 だからといって、私たちはこの世界に責任を持たなくてもいいということではありません。神が定めた時まで、私たちはこの地に住みつづけて、「みこころが地でも行われるよう」にと祈り、生きるのです。「どうせ過ぎ去るから…」とあきらめてしまうのではありません。


地と天は逃げ去り

2022年12月19日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 20章

 日曜日の朝、公園に行きました。寒い! でも寒いからこその美しい景色が広がっていました。

 20章に繰り広げられるのは、「千年王国」と呼ばれる時期のことです。それは、悪魔が捕らえられ、底知れぬ所に投げ込まれて、閉じ込められることに始まります。

 悪魔についての2節の描写は、12章9節とほぼ同じです。どちらにも「古い蛇」とあるのですが、創世記3章1節以降で女を惑わした蛇を思わせます。しかし、千年間はサタンによる攻撃がありません。そしてこの千年は、信仰のゆえに殉教した人々が生き返ってキリストとともにこの世界を治める期間です。

 ここにはさらに、千年の終わりに再び悪魔が解き放たれ、地の諸国を惑わすために出て行って「最後の戦い」のために召集します。「ゴグとマゴグ」はエゼキエル書38−39章の預言に出てきます。そこには、ゴグの出身地がマゴグだとあります。ここでは悪魔によって召集されるおびただしい数の悪の群集を表すのでしょう。この戦いは、天から火が下って来て彼らを焼き尽くし、悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれるという結末を迎えます。

 さらにヨハネは、驚くべき光景を目にします。地と天とが御座の前から逃げ去り、跡形もなくなったのです。主イエスが弟子たちに語られたことばを思います。

 「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」マタイの福音書24章35節

 これまでヨハネが記してきた患難も、千年王国も、次ぎに用意されている新しい天と地との前では過渡期だということが分かります。私はどこを目ざしているのだろうかと、問うてみましょう。


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