みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

もし…なら

2020年02月29日 | レビ記

レビ記 26章1−26節

 今日は4年に一度のうるう日。2月はずっと新型コロナウィルスの脅威にさらされていた感があります。日本では公立の学校を3月初めから休校とするとの要望が政府から出され、現場が混乱していると報じられています。教会の礼拝は人が集まる場所。対応に追われている方もおられることでしょう。

 1月から読み続けてきたレビ記も、あとわずかになりました。「みことばの光」の執筆者が1月号の「レビ記を読む前に」の冒頭に「レビ記、それは聖書通読挫折箇所ナンバーワンだからだろうか。2020年は半月ばかりの恵みの助走を経て、満を持してレビ記に挑む」と書いておられました。特に、「満を持して」ということばに「さあ読もう!」という強い呼びかけを感じました。いかがでしたか。

 今日の箇所には、2つの「もし…なら」ということばが見られ、そのことばに導かれて神の祝福とさばきの内容が書き連ねられています。「もし…なら」には、イスラエルの民が神の掟・命令・契約を守るなら、守らないなら、という条件節が入り、その結果が記されます。守るのならば、産業(農業)、治安、外交そして家庭に神の祝福が注がれ、守らなければ、健康が損なわれ、不作となり、敵に攻め込まれ、家庭に争いが…というようなことが起こります。

 神は厳しすぎる、恐ろしいと背を向けることもできるでしょう。しかし、私たちが当たり前だと思っていることや自分の力でやっていると思っていることの根幹は、じつは自分たちではどうにもならないのではないでしょうか。大切なものは神が与え備えておられるのです。ですから「もし…なら」を聞き逃すことのできません。

 神を恐れることと拠り頼むことが必須であることを、ここから教えられます。


わたしのしもべ

2020年02月28日 | レビ記

レビ記 25章29−55節

 仕事部屋の天窓を叩く雨音が静かになったと思って見ると、雪に変わっていました。予報どおりでした。1時間ほど強く降ったので、あっという間に景色が変わりました。感動する二人にはまだ子どもの心が残っているのだろうか、と話しました。一時帰国中のことはわかりませんでしたが、私たちの記憶では2月終りの初雪になりました。なごり雪ですね。

 クロッカスは縮こまり、待雪草(ドイツ語で「雪の鐘」の意味)は「待ってました!」と喜んでいるかもしれません。

 25章後半には、土地や財産の移動についての規定が明らかにされています。人には能力の違いがあり、また突発的なことも起こりますので、同じにスタートしても富を蓄える人と、今日の箇所に何度も見られますが、落ちぶれてしまう人とが出てきます。ここでは、落ちぶれた人を守るようにとの神の配慮が示されています。

 城壁の中の住まいを売らなければならないときもあります。そのような場合でも、一年の間は買い戻しの権利が与えられていました。けれども、五十年目のヨベルの年になっても、この家は元の持ち主のところには戻りませんでした。城壁のない家の場合は、買い戻しの権利があり、かつヨベルには元の持ち主に返されるというのです。

 イスラエルの同胞が落ちぶれた場合でも、その人を奴隷としてはならないとの規定もあります。その理由として挙げられているのが、42節の「彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。奴隷の身分として売られてはならない」ということばです。皆が主のしもべ、つまり奴隷なのだから、持てる者は落ちぶれた者の尊厳を守り、落ちぶれた人を雇い人とし、家族の面倒も見なければなりませんでした。そして、その立場もヨベルの年には解放されたのです。

 今日の「みことばの光」に、信仰者はキリストによって罪から解放されて永遠のヨベルを与えられたとあります。ふさわしく歩みたい、です。


土地は誰のもの

2020年02月27日 | レビ記

レビ記 25章1−28節

 水曜日午後、おいでになった方がとても美しいスイーツを焼いてこられました。色合いもかわいらしく、甘さも控えめ。量もちょうどよかったです。ご馳走様!

 25章の前半には、7年目の土地の安息つまり「安息の年」について、安息の年を7回数えた50年目の「ヨベルの年」についての規定が神によって与えられています。

 土地にも安息を与えよという規定からは、土地への労りを感じますし、同時に人間がどん欲になることを防ごうとする神のみこころが示されています。収量をひたすらに増やし、より多くの利益を目指そうとする現代の価値観から見たら、もったいないということなのかもしれませんが、結果的に土地を労ることにつながるのではないでしょうか。20―22節には、「7年目には何を食べればよいのか」という問についての主のことばが目に留まります。主は6年目に3年分の収穫を生じさせると言っておられるのです。

 50年目の「ヨベル」についての規定は、土地は誰のものなのかという問いかけへの答えを示しています。そして、50年目の「ヨベルの年」がここで神が命じておられるように守られたのであれば、富む者と貧しい者との間に横たわる格差はどのようになるのでしょう。

 「買い戻しの権利」についての規定からは、ルツ記をおぼえます。この権利を行使した小さな家族がいたということは、この掟がイスラエルの民の間で生きていたということを知ることができます。 土地も、収穫物も、すべて神のものだと知ることが、「もっともっと!」というどん欲から自分を守るのです。


絶えず…

2020年02月26日 | レビ記

レビ記 24章

 昨日午後には、近くの教会のドイツ語クラス(といっても昨日の生徒は私たちも含めて3名)に参加しました。久しぶりに参加した中国からの方としばし、新型コロナウィルスの話をしました。昨日のクラスでは、二つの名詞の後ろと前とに同じことばが入るのだが、何ということばか…という課題でした。日本語で例えると、「簡易包装」と「包装紙」というようなものです。つまり「簡易」と「紙」をつなぐことばを考えてみようということでした。それにしても、私たちのようなものを忍耐して教えてくださるのには、感謝でいっぱいです。

 24章前半には、幕屋における祭司の日常の務めのこと、神を冒瀆した者への厳しいさばきの事件のことが記されています。

 前半の日常の務めについては、繰り返されている「絶えず」ということばが目に留まりました。会見の天幕の聖所にある燭台のともしびを絶やしてはならないということ、同じく聖所にあるパンの台には、12個の輪形のパンを絶やしてはならないということを、主ご自身が語っておられます。

 毎日行われる仕事や作業のことを、最近では「ルーティーン」と言っています。スポーツ選手の場合は、このルーティーンを怠けず、だらけずに行うことが実力につながると言われます。キリスト者の生活にも「絶えず」行うことがあります。ここで「ともしびを絶やさない」というのは、光なるイエスのもとに毎日行くようにということを象徴しています。パンを絶やさないということは、毎日神に感謝するということととらえてもよいと思います。

 誰にも見られない、神との個人的な時と場を絶やさないことが、生活を支えるのですね。


新しい穀物のささげ物

2020年02月25日 | レビ記

レビ記 23章15―44節

 先週の水曜日に当地から東に50キロほどの町で9名のいのちが奪われるという銃撃事件が起こりましたが、昨日は州の北部でカーニバルのパレードに自動車が突入して十数人が負傷するという事件が起こりました。新型コロナウィルスの脅威が欧州にも…と報じられています。このような時に、不安や恐れの中にいる方々が神のことばによって支えられるようにと願い、祈ります。

 23章後半には、イスラエルの民が守るべき例祭のうちの、太陽暦では5―6月にもつ「七週の祭り」と、9―10月にもつ「ラッパの日」、「宥めの日(贖罪の日)」、「仮庵の祭り」についての定めが神によって示されています。

 「七週の祭り」は「過越の祭り」の安息日の翌日から七週を数えた日にもたれます。「過越の祭り」の安息日から50日目なので、ギリシア語で50を表す「ペンテコステ」と呼ばれます。新約聖書では、この日に聖霊がイエスの弟子たちの上に臨まれた日としておぼえられます。

 「七週の祭り」は、小麦の収穫の頃です。16節の「新しい穀物のささげものを主に献げる」ということばに目が留まります。秋に蒔いた種は、「初めの雨」によって芽を出します。収穫を前にしての春に降る「後(のち)の雨」によって豊かな実りがもたらされます。昔も今も作物は天候次第。イスラエルの民は、折に適って雨を降らせる神への感謝とともに、ささげ物を携えてきたことでしょう。

 すでに19章9節で命じられたことが22節にも記されます。収穫物は耕作者のものではなく神のものなのだからという姿勢を持つべきことがここからわかります。ルツ記の情景を、そしてミレーの「落ち穂拾い」を思い浮かべます。


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