みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

善にはさとく、悪にはうとく

2021年11月30日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 16章17−27節

 当地でもアジア食材を売る店が増えてきました。日本ではスーパーで安く買えるモヤシも、最近は一般のスーパーでも買うことができます。けれども安くはありません。しかし、アジア食材店に行くと半値以下で買えるのです。たかがモヤシ、されどモヤシです。

 ローマ人への手紙もいよいよ最終回。とても名残惜しい気がします。ここにはまず、教会が分裂とつまずきに巻き込まれないようにと注意を促しています。コリント人への手紙などとは違い、この手紙は教会の具体的な課題や問題に、パウロが処方せんを出すというものではありません。しかし、14章を読むと一人ひとりの生活の仕方、たとえば何を食べるか、どの日を大切にするかなどということでの考え方の違いが教会内にあったことが分かります。

 そのような違いが、悪い動機を持った偽教師に用いられて教会が混乱するということは起こりうることです。18節には、偽教師の特徴が明らかにされています。彼らは誰に仕えているのかということばに目が留まります。私は誰に仕えているのかということを、いつも確認することを怠ってはならないと…。

 さらにパウロは、教会をそのような危機から守るためには、一人ひとりが「善にはさとく、悪にはうとくある」ことだと言っています。出来事の表層だけで人や物事を判断しないで、みことばの光に照らしてよく考えるさとさが求められているのだと思います。

 そして終わりは、この手紙を書いたときにパウロのそばにいた人々からの「よろしく」のあいさつです。22節にはこの手紙を筆記したテルティオの名が出てきます。さて、テルティオはどんな思いで自分の名を記したのでしょうか。想像が膨らみます。 


同労者

2021年11月29日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 16章1−16節

 礼拝が終わり、自動車を駐車している所に行ってみると、フロントとリアガラスに付着していた水滴が凍っていました。気温がぐっと下がったのですね。昨日から待降節、家々にはイルミネーションが灯り始めました。

 最終章のこの部分には、まだ行ったことのないローマの教会にいる、パウロが知っている人々の名前が連なります。今で言う、パウロのネットワークです。きょうの「みことばの光」は、たくさんの名前の中からルフォスに焦点を当てていますが、ここに名が記されている一人ひとりにキリスト者としてのたくさんのドラマがあったということが分かります。

 フィベという女性はパウロの支援者、そして使徒の働きやコリント人への手紙にも出てくるプリスカとアキラはパウロのいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれたと、パウロは書いています。パウロは一人で福音を伝えてきたのではもちろんなく、ここに名前の出てくる人々、名前の出てこない多くの人々の祈り、経済的な支援、具体的な助けが必要だったし、実際に助けられてきたのです。

 プリスカとアキラ夫妻については、使徒の働き18章2節によるとクラウディウス皇帝がユダヤ人を迫害した時にローマから逃れてコリントに来ていたことが分かります。そして二人は、コリントでパウロとともに福音のために働きます。そして、パウロがこの手紙を書いている頃には再びローマに戻っていました。

 ここに三度用いられている「同労者」ということばに目が留まります。同労者、つまり「いっしょに働く人」は競うことなく、互いに助け合う者同士です。祈り祈られる者たちは誰もが、そのようでありたいと思います。


祭司の務め

2021年11月27日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 15章14−21節

 当地の感染者増によって、集まって行う会がオンラインで行われました。集まるとなると、片道2時間少しをドライブし、また2時間少しかけて戻って来るという手間が省けるので楽だと言えますが、それでいいのだろうか、という思いもあります。もっとも、オンラインでの集まりゆえに、時差さえ気にしなければ日本から参加することができます。昨日の会でもお二人の方が日本から参加しておられました。

 ここでパウロは、自分に与えられた使命について書いています。それは、彼が異邦人のためにキリストに仕えるということです。その使命は、福音そのものであるお方イエス・キリストが彼に与えられたものです。自分への使命が何かを知った彼は、以来その使命を果たすためにひたすら走り続けてきました。

 ローマの教会は、律法を持つユダヤ人と、律法を持たないユダヤ人以外の人々で成り立っていました。異邦人に福音を宣べ伝えるという使命をキリストからいただいたパウロは、この手紙の中で「信仰による義」を説いてきました。律法を持ち、それを行うことを肝要なこととしてたユダヤ人にとって、パウロが書いていることは厳しいものであったに違いありません。それが、「所々かなり大胆に書きました」の意味です。

 パウロが自分を祭司の務めを果たしていると書いたのは、福音を宣べ伝えることによって救われた異邦人が神さまに献げられたものとなるということと結びつけているからです。

 「祭司の務め」ということばに目が留まります。自分は誰と神との間に立っているのだろうか…と。


心を何で満たすか

2021年11月26日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 15章1−13節

 「みことばの光」を講読するようになってずいぶん経ちます。初めのうちは「積ん読」(そんなに分厚くはありませんが、1年分重ねるとそれでも結構な厚さになります)で一か月に一週間も読まないことがしばらくありました。そんな私が編集の働きをするなどと、考えもしませんでした。聖書は不思議な書物で、何度も読んでいるのですがその都度新しい発見があります。「飽きない」のです。

 ローマ人への手紙もあと2章。何となく名残惜しい気がします。パウロはこの手紙を口述筆記によって書いていく中で、どんな思いで閉じようとしているのだろうかと、想像します。この時にはまだ訪ねたことのないローマの信仰者たちのことを思い浮かべながら、ユダヤ人と異邦人、力のある人と力のない人、強い人と弱い人とがいっしょになって主イエスに仕えている教会が、互いの違いを斥け合うことなく、受け入れ合うようにと勧めています。。

 ここで彼は、神のご計画が必ず実現すると確信しています。それは今はイエスを拒んだ割礼のある人々もやがてイエスをメシアとして受け入れて救われること、異邦人も神をあがめるようになるということです。

 感染症の拡大の中で、互いの考え方の違いが際立つことも見られるようになっています。この手紙の14―15章に書かれていることは、過去の教えではなくてきわめて現代的なメッセージです。違いを理解し合って、神をほめたたえることの鍵は、13節。何で心を満たそうとしているのかと、いつも探られています。


愛によって歩む人

2021年11月25日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 14章13−23節

 長い間使ってきたマウス(コンピュータの操作で用いる)が壊れたので、同じ名前の新しい世代のマウスを購入。これまでの物は電池を取り換えていましたが、こちらは充電式。ただ、充電中は使用することはできません。そんなにバッテリーは消耗しないので、使わない間に線をつなげばよいことなのですが…。

 教会でよく耳にすることばの一つに、「つまずき」「つまずく」があります。パウロが取り上げているのはこの問題です。13節に「兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい」とあります。

 この手紙には「信仰による義」という教えが整然と説かれていて、ローマ教会の姿が詳しく述べられているわけではないという印象があります。けれども、この部分からは、どのような課題が教会にあったのかを知ることができます。飲食のことです。ある人は何を食べるか何を飲むかによって人が汚れることはないと考えていましたが、別の人は食べる物や飲む物によって自分が汚れるのではないかと思っていました。

 パウロは、人は食べ物や飲み物によって汚れることがないという考えを支持しています。それとともに彼は、もしも食べ物や飲み物で兄弟がつまずくのであれば、肉を食べずぶどう酒を飲まないのは良いことだと書きます。その動機は同じ信仰をもつ主にある兄弟への愛。信仰によっていただいた自由。それを肉の働く機会としないで、愛を動機として用いるようにという促しをおぼえました。


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