みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

二つの「その日」

2019年09月14日 | イザヤ書

イザヤ書 4章

 いつもの床屋さんに行きました。金曜日の午後なので満席。すると、「2分だけ待って」と言って店の人が持ってきてくれたのはトルコのチャイ!。角砂糖2個を溶かして美味しくいただきました。

 4章1節、2節は「その日」ということばから始まります。けれども内容的に1節は前章から続くものです。エルサレムの多くの男たち、勇士たちが戦いに倒れたために、女たちは結婚の相手に窮するという様子が描かれています。ある英訳の聖書は女たちのことばの後半を「ただ子どもをください。私たちを妊娠させてくださって…」と訳しています。このようなことばにも、神に背を向けた世の身勝手な心を垣間見る思いがします。

 自分たちの罪のためにエルサレムに危機が訪れていることを、神はイザヤによってユダとエルサレムの人々に語られます。それは避けられないことであり、やがて南王国ユダはこの地から消えていきます。この厳しいイザヤのことばを、ユダとエルサレムの人々はどのように聞いたのだろうかと想像します。おそらく、そんなことがこのエルサレム、シオンに起こるはずはないと聞き流したか、「何を言うのか!」といきり立つ者もいたかもしれません。そして彼らが2節以降に約束される希望だけを耳に入れたというのは、想像が可能です。

 2節の「その日」は、やがて来る日、終わりの日を指しており、6節までに、エルサレム、シオンへの希望が約束されているのです。これは、イザヤの預言を聞いている人々の中に実現することではなく、ずっと先のことです。「主の若枝」と呼ばれるメシアが来た時に起こることなのです。

 きょうの「みことばの光」では主の若枝が三つのことをもたらすと書いています。さばきの後に残されたものが聖なる者とされること、彼らの汚れが洗い流されること、主の臨在が表されることです。「主の若枝」がイエス・キリストを指すことをクリスチャンは信じており、ここに預言されていることはやがて「その日」に全くそのとおりに実現することを信じ、そこに希望を置いています。

 自分に都合のよいことだけでなくて、厳しいことばをも、聞くことが肝要なのです。

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顔つきが答える

2019年09月13日 | イザヤ書

イザヤ書 3章

 引っ越された方のお宅で、久しぶりに聖書の会をしました。そこは、地下鉄(といってもその付近では地上を走っていますが…)の最寄り駅から歩いて20秒という、「鉄」にとってはすばらしい場所。驚いたのは、駅のそばの踏み切りには遮断機がなく、線路の向こう側に赤信号が灯っているだけだったということ。日本のように「カンカン、カンカン」という踏み切り警報音が鳴りません。目の前を通過する電車を見ながら、「おお、危なかった!」と思いました。

 1−5章はイザヤ書全体の序論にあたり、神から「希望の約束と叱責」が預言者イザヤによって届けられます。そしてここでのメッセージがどのように実行に移されていくのかが展開されています。そして分量は、叱責が希望の約束のメッセージにはるかにまさっています。それだけ、イザヤの時代が危機的な状況にあったことを語っているのでしょう。そして本章はすべてが神からの叱責、さばきのメッセージです。

 ここでは、神がエルサレムとユダから人々の支えと頼みになるものを除かれるとあります。それらが、パン、水、勇士、戦士、さばき人、預言者、占い師、長老、五十人隊の長、身分の高いもの、助言者、賢い細工人、巧みにまじないをかける者、です。時代的な背景は異なりますが、ここに並ぶものは、今の私たちも頼りにしているものではないのでしょうか。良い指導者がいなければ、国家も企業も立ち行きません。

 神はエルサレムとユダからこれらのものを除かれるのは、彼らが真に頼るべきお方、神に背を向けたからです。そして、民を守るべき者たちが自分の利益を追い求めるために、貧しい人々や弱い人々から奪い取り苦しめたのを、神はしっかり見ておられたのです。

 「彼らの顔つきがそれを表している」という9節のことばに目が留まります。いったい神は彼らをどのようにご覧になったのだろう、神の目に彼らの顔はどのように映ったのだろうかと想像します。同じお方は今のこの世界をどのように見ておられるのか、私たちの顔は時代の何を映しているのだろうかと考えます。

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高ぶりは低くされ

2019年09月12日 | イザヤ書

たこイザヤ書 2章

 いただいた無花果(いちじく)。レンジで「チン!」をすると、甘味が増していちだんと美味しい、です。日本にいる時、隣の方が無花果をくださったことを思い出しました。

 「みことばの光」の「イザヤ書1−12章を読む前に」には、1−5章は本書全体の序論にあたり、神がご自分の民を告発するとともに、悔い改めた者への展望、希望が約束されているとあります。本章でも、1−4節には将来に約束される希望が、6−22節にはイザヤの時代のユダとエルサレムの罪の現状が語られます。

 1−4節では、終わりの日に何が起こるのかが預言されます。描かれているのは、主がおられるところにすべての国々が来て主のことばを慕い求めるという景色です。この4節を読むだけでもこの時を心待ちにする自分がいます。神のことばが語られ、あらゆる国の人々がそのことばによって歩むところには平和が訪れます。「彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」のです。

 しかしその後には、神がお選びになった民の現実が続きます。6−8節に描かれているのは、多くのモノにあふれている神の民の姿。人間の知恵、富、軍事力、そして多くの神々に彼らは囲まれているのです。人は安心のために多くのモノや人を自分の周りに置こうとします。「これで自分はだいじょうぶ」と安堵するのですが、そうでしょうか。

 10−18節には、モノにあふれたご自分の民を神がさばかれる様子が描かれています。目に留まるのは神が彼らのおごり高ぶりを低くされるということばの繰り返しです。自分たちの思いのままにことを行えることに高ぶっていた彼らは、神のさばきにあってこそこそと穴の中に逃げ込むのです。その時、彼らが頼りにしていた金や銀で作った神々は何の役にも立ちません。

 「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」という5節の呼びかけが希望とさばきのメッセージの間にあることに目が留まりました。このことこそ人を希望に導くのか破滅に導くのかを分ける大切な鍵だということに気づきます。

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時代に語る神

2019年09月11日 | イザヤ書

イザヤ書 1章

 昨日書いたように、12月号の編集をしています。きょうから始まるイザヤ書の通読は、途中ほかの聖書を読みながら進みますので、12月号まで続きます。「みことばの光」9月号の「イザヤ書を読む前に」は、イザヤが紀元前8世紀中頃から7世紀初めにかけておよそ50年以上預言者として活動したと書いています。

 この書の初めに、「これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」とあります。神は南王国ユダのこれらの王の時代に、イザヤに幻を見せてくださいました。幻といっても、「夢か幻か…」というようなはかないものではありません。神が預言者に与えられた「啓示」を指しています。「見た」というのですから、イザヤの視覚に訴えるようにして啓示をお与えになったのです。

 そしてそれは、イザヤが自分の心に秘め置くためのものではありませんでした。彼は自分が見た神からの幻をその時代に語るのです。「今の世はどうですか? 良い時代ですか、悪い時代ですか…」と尋ねられたら、人はどのように答えるでしょうか。栄え成功している人は「良い時代」だと答え、反対に貧しさに甘んじている人は「ひどい時代」だと答えるかもしれませんね。

 ここには、いや、聖書には、神はそれぞれの時代をどのように見るのかが書いてあります。その視点にはぶれがありません。公正に見ます。そればかりか、その時代に正しい判断を下します。政治的に力を持ち、経済的に栄え、熱心な宗教行事がなされているからと自己満足をしている者たちの、その者たちも気づかない本当の姿を見、語るのです。

 今から2700−2800年も昔のことばを読むことにはどんな意味があるのだろうか、とイザヤ書を目の前にして考えます。人の本質は変わることなく、神がそれをどのように見、考え、判断するかは変わらないからです。今も、神は見て、語るのです。 

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私たちも以前は

2019年09月10日 | テトスへの手紙

テトスへの手紙 3章

 月曜日は、日本との間で「みことばの光」12月号の編集をしました。時差の関係で当地朝4時半からの仕事ですが、10月からは夏時間が終わりますので、さらに1時間早くなります。9月に入ってまもない今ごろに12月号の作成をするのですが、改めて不思議な思いがします。12月号はいつになくたくさんの聖書箇所を読みます。今からお楽しみに…。

 パウロによる「テトスへの手紙」は全部で3章ですから、きょうで読み終えます。サーッと過ぎ去ってしまうようです。この章でパウロはテトスに、教会が社会の支配者や権威者に従い、良いわざを進んでするよう教えよと書いています。2章にもありましたが、福音は社会の仕組み、形をラディカルに変えるというようには働きません。一人ひとりのたましいを造り変えるのです。ですから、パウロがここで書いているのは、保守的と受け取られやすいのです。できる限りこの世の支配者や家に従えと言うのですから…。

 しかしよく考えてみますと、仕組みを変えること以上に一人ひとりが造り変えられていくことは、世界にとって大変意義のあることです。この世の権威に対して、受身の姿勢で対するのではなくて、むしろ積極的にすべての良いわざを進んでするようにというのが、パウロがクレテのクリスチャンに願っていることでした。

 3節の「私たちも以前は、…」ということばに目が留まります。この手紙を書いているパウロも、受け取るテトスも、そしてクレタにある教会の兄弟姉妹も、そして私も、お読みになっているあなたも、例外なく「私たちも以前は…」ということばに大きくうなずくことでしょう。

 そのような者を神は救ってくださったのです。「救う」とか「救われる」というのは、その人が自分の力や知恵ではどうにも解決ができず、お手上げになっているような時に、神がその状態から抜け出させてくださったということです。4節の「いつくしみ」「愛」とは、罪のゆえに全く行き詰まってしまっている私たちへの神の態度です。

 そのような者が救われたのです。ですから、救ってくださった神への感謝を、積極的に良いわざに励むということで表わす…、このことを忘れてはならないのです。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki