みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

永遠の救いの源

2019年09月30日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 5章

 日本で開催されているラグビー・ワールドカップで、日本があのアイルランドを破ったというニュースに驚き、喜びました。その前の大会で南アフリカを破った時もびっくりしましたが、今度の驚きは強さへの驚きです。

 この章では、旧約聖書の大祭司と完全な大祭司キリストとが比べられています。その類似性と違いとを明確に宣べるのです。大祭司とは、神と人との間に立ち、罪ある人間のためにささげ物をささげ、とりなしするという務めをしていました。

 類似性としては、それぞれが自分がなりたくて、希望して務めに就くのではなく、神によって任命されたということです。

 違いは、大祭司には罪があり自分のためにささげ物をささげる必要がありましたが、キリストにはその必要がなかったということです。また、大祭司は弱さを身にまとっているので無知で迷っている人々に優しく接することができるともあります。

 キリストはそれでは無知で迷っている人々にどのように接したのだろうかとの思いに至りました。7節に「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ…」とあります。十字架の大きな苦痛、暗黒を前にしてイエスが「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈られました。

 徹底的に神に従順であられたゆえに、キリストは永遠の救いの源になられたのです。イエスを信じて神さまから賜ったのは「永遠の救い」なのだと知ると、あれこれ悩まず、心を乱すことなく、ドーンとしていようという思いが湧いてきます。

コメント

誰のことを考えるのか

2019年09月28日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 3章

 誰かが自分をどのように呼ぶのかで、気持ちや覚悟が違うのではないだろうかと、1節を読んで思いました。

 この手紙の著者は手紙の受信者たちを、「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼んでいます。改めて、そうなのだ! 自分もまたこのような立場を得ている者なのだと確かめることができ、それゆえの喜びとともに、覚悟のほどを問われているような思いもしました。

 1節からはもう一つのことを心に留めます。「イエスのことを考えなさい」ということばです。

 2節以降で著者は、モーセとイエスとを並べて考えさせます。これは、ユダヤ人でイエスをキリストと信じた人たちにとっては大いに関心のある事がらだったことでしょう。どこを取り上げても、モーセに対してイエスはまさっていると言うのです。そしてこの章の終わりの部分では、モーセはイスラエルの民を約束の地に導き入れることができなかったのに対して、イエスはご自分を信じる人々をほんとうの安息に入ることができるようになさったと筆を進めるのです。

 なぜこの手紙の著者は、モーセとイエスをこのように比べているのでしょうか。それは、受信者たちの中にイエスへの信頼が揺らいでいる人々がいたからです。ですから、「イエスのことを考えなさい」と促すのです。それも、一人だけで考えるのではなくて、互いに励まし合うようにと勧められていることにも、目が留まります。

 すばらしい主の日、日曜日をお迎えになりますように。

コメント

苦しまれたからこそ

2019年09月27日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 2章

 久しぶりに、アメリカ東海岸に住む同労の方と話しました。お元気そうな様子に互いに安堵(あんど)。話をしているうちに、時差に気づき「今何時?」と尋ねますと、「朝の3時半」とのこと。いただいた通話(?)でしたが、「すみません!」とおわびしてしまいました。数日前に日本から戻ってまだ体がこちらに慣れていないので、夜中でもだいじょぶとのことでした。

 ヘブル人への手紙の著者は、前の章でイエスは御使い(天使)よりもはるかにまさるお方、つまり万物の創造者であり、相続者であると、つまり神であると説きました。しかし本章では、その御子がほんのわずかの間、御使いよりも低くされたと続けます。ここで、「低くされた」というのは、この章にある他のことばで言うなら、人がみな血と肉を持っているのと同じように、血と肉を持つものとなったということです。すなわち、人となられたのです。ありえないことです。

 それは、死の苦しみを受けるためでした。もちろん、自分のための苦しみではなく、すべての人のためのものでした。「すべての人のため」ということばが目に留まります。そこには私も含まれています。そして、これをお読みのあなたも…。私の代わりにそんな苦しみの極みまでも通られたということは、これがなければ私は死の苦しみを延々と味わい続けなければならないのです。恐ろしいことです。

 10節に、神が御子を多くの苦しみを通して完全なものとされたとあります。御子は完全なお方ではなかったのかという「突っ込み」が入りそうです。しかし、ここでの意味は不完全な人格が完全になったということではありません。御子イエスが、救いのわざのすべての過程を完全に走り抜かれたことで、救いのわざを完全に成し遂げられたということを言おうとしているのです。ありがたいことです。

コメント

すべてにまさる神の御子

2019年09月26日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 1章

 水曜日夕方、近くの川沿いに胡桃拾いに出かけました。けれども、収穫は10個にもなりませんでしたし、途中からは雨が降ってきたので、切り上げて帰宅。この頃の陽気は、朝に曇っていたと思ったら雨が降り、そのうちには日が差したので「よし、出かけよう」とすると雨が降ってくるという変化に富んだものです。

 「みことばの光」では、きょうから「ヘブル人への手紙」を読みます。新約聖書には21の書簡(手紙)が収められていますが、この手紙は著者が不明、宛先はイエスをキリストと信じたユダヤ人キリスト者たちだということがわかります。

 この手紙は、差出人の挨拶なしにすぐに用件から入ります。「神は語られた」と話を始めるのです。読者たちがヘブル人のキリスト者であれば、神が預言者たちによって……先祖たちに語られたということばに、「うん、そうだ」と深くうなずいたことでしょう。

 その後で、「この終わりの時には、御子にあって……語られた」と続きます。そして、このことを皮切りに御子イエスが、御使いよりもはるかにまさる神であるということを明確にしていくのです。

 すぐに本題に入ることから、宛先の教会、キリスト者たちがどのような危機の中に置かれていたのかを想像することができます。イエス・キリストの神性に疑いを挟む者たちがいて、信仰が揺さぶられ、捨ててしまう恐れが読者たちの交わりにあったのです。新約聖書に収められている手紙の多くは、宛先の教会に何らかの問題があり、その問題解決のために使徒パウロを初めとする教会の指導者たちが手紙を書いて正しています。

 「キリスト教はキリストである」ということばがあります。イエス・キリストについての信仰がぐらつくなら、教会は立ち行かなくなります。2−4節では「イエス・キリストはほんとうに神なのですか」との疑いに、明確に「そのとおり」と答えています。このお方から離れてはならないというメッセージが伝わってきます。

コメント

何を見るのか

2019年09月25日 | イザヤ書

イザヤ書 17−18章

 朝6時にはまだ星の輝きを見ることのできるまでに、夜が長くなってきました。きょうは晴天だ! と思いましたが、期待が外れて曇天の一日でした。火曜日午後のドイツ語のクラスでは、国連の気候サミットが話題に…。

 17章でダマスコ、18章ではクシュ(エチオピア)への神の宣告を読むことができます。ダマスコはイザヤの時代は北王国イスラエルの北に位置するアラムの首都でした。アッシリアの侵入を食い止めようと、アラムと北王国イスラエルは同盟を結びます。18章に登場するエチオピアは、紀元前715年に王であるビアンキがエジプトを征服して、第25王朝を開きます。エジプトのこの王朝はエチオピアによるものなのです。さらに派遣の拡大を目論むビアンキは、使節団を各国に送って反アッシリア同盟をつくろうと動きます。ですから、ダマスコも羽根コオロギの国クシュも、「反アッシリア」ということばで括(くく)ることができるのです。

 そのような動きに対して、神は預言者イザヤによってその国は何によって立つのかを語っておられるのです。

 まず、彼らの画策は実を結ぶどころか国を滅ぼすことになると語ります。この時神はアッシリアをご自分の怒りの杖、鞭として用いておられるのだから、どんなに国と国とが同盟を結んでも太刀打ちすることはできないのです。それぞれの都、国土が荒れ果てる様子もここに描かれます。

 そことともに、ここには彼らの回復についての預言もあります。やがてダマスコが、そしてイスラエルが、神の懲らしめを受けたあとで、祝福されるという約束なのです。17章7−8節では「目を留め」、「見る」、「目を留めず」「見ない」ということばが、それぞれ対になっています。「目を留める」とは、チラッと見るという意味ではありません。対象をじっと見るということなのです。

 窮地に陥った時に、国家も個人も、どこと組んだら良いか、誰にすがったら良いのかと慌ただしく動きます。けれども、どんな国家も個人も、頼るべき相手、じっと見上げて信頼するべき相手は「自分を造った方」お一人なのだというメッセージを、現代こそ受け止めるべきなのです。

コメント

2011-2020 © Hiroshi Yabuki