詩篇96篇
主なる神の平安がありますように。
日本ではきょうが事業年度の終わりの日です。その日に、「新しい歌を主に歌え」との呼びかけをともに聴くことができるのには、意味があることだと思います。
昨日読んだ95篇も、そして96篇も声を出して読むと、讃美歌のメロディーが浮かんできます。それほど親しまれている詩篇なのですね。
さて、きょうの箇所には「みことばの光」の区分にあるように、2つのことが呼びかけられているのに気づきます。その1つは「新しい賛美を全地に訴えている」ことです。新しい賛美というのは文字通り新しいことばやメロディーによって主を賛美するということもあるでしょうが、日ごとに新しい思いで主を賛美することなのだ、と教えられます。
「全地よ」という呼びかけは、詩人がその喜びを自分のうちにおさめておくことができないほどのものだったのかも知れません。
昨日の文章でも触れましたが、このようなときだからこそ、小さなことに喜びを見出して、神様に感謝し、賛美をささげる一日でありたいと思います。
桜のつぼみが少しふくらんだかな? というこの頃です。
主なる神の平安がありますように。
日本ではきょうが事業年度の終わりの日です。その日に、「新しい歌を主に歌え」との呼びかけをともに聴くことができるのには、意味があることだと思います。
昨日読んだ95篇も、そして96篇も声を出して読むと、讃美歌のメロディーが浮かんできます。それほど親しまれている詩篇なのですね。
さて、きょうの箇所には「みことばの光」の区分にあるように、2つのことが呼びかけられているのに気づきます。その1つは「新しい賛美を全地に訴えている」ことです。新しい賛美というのは文字通り新しいことばやメロディーによって主を賛美するということもあるでしょうが、日ごとに新しい思いで主を賛美することなのだ、と教えられます。
「全地よ」という呼びかけは、詩人がその喜びを自分のうちにおさめておくことができないほどのものだったのかも知れません。
昨日の文章でも触れましたが、このようなときだからこそ、小さなことに喜びを見出して、神様に感謝し、賛美をささげる一日でありたいと思います。
桜のつぼみが少しふくらんだかな? というこの頃です。