みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

思い起こしなさい

2019年10月31日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 10章32−39節

 昨日は日本からおいでになった方の乗り換えのお手伝いで中央駅に行きました。列車はやはり遅れましたが、駅の対応は素晴らしかったです。

 10月最後の日になりました。「みことばの光」が書くように、きょうは宗教改革記念日です。当地が含まれる州は平日ですが、お隣の州は祝日です。プロテスタントが多い州ではおおむね祝日になっているようです。2年前のルターの宗教改革500年の折りに国を挙げて祝ったあれはどこに行ったのだろうと思います。

 きょうの箇所は、「初めの日々を思い起こしなさい」ということばから始まります。この手紙の読者は信仰ゆえに苦難を受けるという戦いを通りました。しかも、立派に戦ったのです。信仰ゆえの確信と希望とが彼らを苦しみの中でもしっかりと立たせたのです。

 けれども、今、彼らにとってそれは過去のことになりつつありました。確信を投げ捨てようとし、忍耐を放棄しようかとの思いも起こってきたようです。そうすると、恐れが生じます。ですから、この手紙の著者は「思い起こしなさい」と勧めるのです。

 歳を重ねるとこれから先を展望することよりも、これまでのことを振り返り懐かしむことが多くなると言われます。けれども、キリスト者にとって初めのころを思い起こすことには大きな意義があります。「あの頃はよかった」ということばには、「でも、今は…」という気分が感じられます。けれども、思い起こすことによって確信を取り戻すことができるのだと思います。

 振り返り、思い起こすことによって、後退から前進へとギアを変えることができるのです。

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…しようではないか

2019年10月30日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 10章19−31節

 台風などによる大雨の被害の大きさが報じられています。心からのお見舞いを申し上げます。

 当地の気温は、夏時間の終りを待っていたかのようにぐっと低くなり、初冬の感があります。

 「こういうわけで」という接続詞は、この手紙の筆者がこれまでに述べてきたことすべてを受けてという意味を持っています。イエス・キリストは比類なき、まことの大祭司だという結論です。そして、この結論に基づいて「…ではありませんか」ということばが四度用いられています。

 最初は「神に近づこうではありませんか」です。流されたイエスご自身の血によって、裂かれた肉を通して、イエスを信じる者はだれもが影や写しではないまことの聖所に入ることができるという確かな約束をいただきました。だから、何の躊躇もなく神に近づくことができるのです。

 次は「希望を告白し続けようではありませんか」です。イエスを信じる者には、天にあるまことの聖所の幕の内側に入っていくことができるとの希望があります。これは、消え去ることのない確かな希望なのです。「私たちは」と複数形であることに目が留まります。集まって礼拝するごとに、ともにみことばを読むごとに、祈るごとに、希望を告白するというのは、私たちが実践するべき良い習慣だと思います。

 そして、「互いに注意を払おうではありませんか」です。イエスを信じる者は、互いに愛と善行に励むように務めます。希望があるから、支え合うことができるのです。

 「イエスを信じても…」と信仰と希望を失いかけていた人々を、ここにある勧めの一つ一つがどれほど力づけたことかと考えるのです。

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ただ一度だけ、一つのいけにえを

2019年10月29日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 10章1−18節

 月曜日はなかなか霧が晴れませんでした。「朝霧は晴れ」と言われていますので、いつ青空が…と期待しましたが、結局顔をのぞかせたのは午後になってからでした。「みことばの光」1月号を印刷に回すための校正をし終えてから、買い物を兼ねていつもの公園を通り抜けました。けれども帰り道はもう真っ暗。公園内は灯がありませんので、通りをたどって帰宅しました。

 この箇所を読み、「ただ一度だけ」「一つのいけにえ」「一つのささげ物」ということばに目が留まりました。律法が示すいけにえの限界が明らかにされるとともに、キリストがご自分をいけにえとして一度だけささげられたことによって完全な贖いが実現し、御子イエス・キリストを信じる一人びとりは聖なるものとされているというのです。

 この手紙を書いた人は、すでに9章12節で「キリストは、…ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられ」と語っています。そして、10章10節で「私たちは聖なるものとされています」と、駄目押しのように、キリストを信じる者は救われている、きよくされているのだと訴えているのです。

 「ジェットコースターのような信仰」ということばを聞いたことがあります。時には高められたとして喜び、逆にある時には自分はダメだと落ち込んでしまう信仰者の様子をたとえているのでしょうか。確かに、自分のすること、思うことなどを精査してみますと、「果たして…」と思うときもあります。けれども大切なのは、自分を取り巻く状況や、自分の感情の動きではなく、神が自分をどの立場に置いてくださったかという事実なのだということを、「ただ一度だけ」「一つのいけにえを」ということばが確認させてくれます。

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永遠の贖い、永遠の資産

2019年10月28日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 9章11−28節

 土曜日で夏時間が終わりました。ですから日曜日の朝6時半は前の日までですと7時半。そのせいか、ずいぶんゆったりと眠ることができたと思ってみたら、まだ朝の6時でした'昨日まででしたら7時!)。朝はそれなりに明るくなる時間とのズレが解消される感があるのですが、逆に暗くなるのが早くて…。冬はそこまで来ています。

 4−9章でこの手紙の作者は、アロンの子孫、つまりレビ系の大祭司ではないイエス・キリストは、彼らにはるかにまさる偉大な大祭司であると書いてきました。この箇所はクライマックスにあたります。ここには、大祭司としてのキリストの優位性がいくつかのことばによって明かされていきます。

 キリストはご自分の血によってただ一度だけまことの聖所に入られたことによって、永遠の贖いを成しとげられたとあります。アロンの子孫の大祭司は、動物の血を携えて年に一度だけ天にあるものの写しと影である至聖所に入りました。けれどもそれでは人の良心を完全にすることができなかったのです。

 永遠の贖いを成しとげてくださったことにより、このお方を信じる者は永遠の資産を受け継ぐというのです。この箇所に二度登場する「永遠の…」ということばに目が留まります。「永遠の」と言うと「永遠のいのち」ということばを覚えます。いつまでもずっとずっと続くという面もあるでしょうが、全くの新しさ、完全さを表していると考えられます。

 過ぎてきた年数のほうが、待ち構えている年数よりもはるかに多い年齢まで来ました。これまではわかったつもりでいた永遠の贖い、永遠の資産、そして完全な救いということばが身近なものとなり、この先に向かって進むという力になっています。

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まことの聖所で仕える祭司

2019年10月26日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 8章

 昨日、お客様が訪ねてくださいました。聞けば私たちが当地に来る前、旅行中に教会の礼拝に参加したことがあるとのこと。記録をたどってみると、おいでになった折りに書いていただいたシートがありました。「なつかしい! 私の字だ」と写真を撮っておられました。不思議な再会です。

 8に章は、レビ部族の出ではない私たちの大祭司が今、まことの聖所で天の祭司としての務めを果たしておられるということが書かれています。そして、天にまことの聖所だとしたら、地上の幕屋、聖所は「写しと影」だとも言われています。

 祭司は、人が神に近づき神の前に出ることができるように、仲介する務めを持っています。このことについては、すでに7章25節で「…イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」と書かれています。

 きょうの「みことばの光」には「イエスこそが天と地をつなぐお方」だということばがあります。考えてみると、私の周りにもたくさんの人がいて、その人たちに助けられ、守られて生活しています。反対に、自分もどなたかにとってはそのような役割を持っていると考えることができます。

 しかし、天にあるまことの聖所で代わらずに仕えておられる大祭司こそ、私にとってだれよりも大切な存在なのです。この方がいなければ、この方の務めがなければ、絶望するしかありません。それほど大切なお方を、忘れることがないように…。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki