みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「きみもそこにいたのか」

2018年03月31日 | ルカの福音書

ルカの福音書 23章44−56節

 当地では、金曜日(聖金曜日)、日曜日(イースター)、月曜日(イースター後の月曜日)と祝日が続きます。ですからスーパーやデパート、お店もお休み。町がとても静かです。外に出ても寒さを感じなくなりました。遅めの春の到来です。レンギョウの花が満開!

 ルカの福音書が記すイエスの十字架上のことばのうちの三つめは「父よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます」でした。このことばは、御子イエスと御父とが一つであったことを伝えています。「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と十字架上で叫ばれたときに主イエスのことばからは、人の罪の身代わりとなって十字架にかかり死ぬということの恐ろしさが伝わってきます。しかし、十字架上の最後のことばからは、父のみこころを成し遂げた主イエスの平安も伝わります。

 一部始終を見ていた百人隊長は、イエスがほんとうに正しい人であったと神をほめたたえました。処刑を見にやって来た人々は、悲しみに暮れて家に帰りました。議員の一人であったアリマタヤのヨセフは、イエスのからだを自分の墓に納めます。ヨハネの福音書19章39節は、埋葬にあのニコデモも携わったことを記します。二人は十字架を機に、信仰を公にしたともいえます。そして女性たち。彼女たちはイエスのからだが納められる様子を見届けていました。それは三日目(金曜日も含めて)に起こる、あの出来事を予感させるような記述です。

 「きみもそこにいたのか」という聖歌400番の歌詞を思い出しました。「きみもそこにいたのか」「なんだか心が震える 震える…」。

 讃美歌262番の「十字架のもとぞ」の歌詞も心に響いてきます。「十字架のうえに われはあおぐ わがため悩める 神の御子を 妙にもとうとき 神の愛よ 底いも知られぬ 人の罪よ」 アーメン。


十字架の上で

2018年03月30日 | ルカの福音書

ルカの福音書 23章32−43節

 きょうはイエス・キリストが十字架にかかられた「受難日」ですが、当地では「聖金曜日」と呼ばれます。

 前日の木曜日、ドイツで親しまれている聖書日課「ローズンゲン」には、Gründonnerstag(緑の木曜日)とありました。

 昼頃街に出てみると、マーケットの立ち食いのお店では、たくさんの人がスープ皿にジャガイモ、ゆで卵を4分の1ぐらいに切ったものが浮かぶ緑色のソースのスープを食べていました。Grüne Soße(グリューネゾーセ〜緑のソース)と言うのだそうです。八百屋さんには、グリューネソゾーセを作るためのハーブが束にして売られています。さらに、スーパーに行くと、入口で瓶入のGrüne Soßeが売られていました。

 調べてみましたら、受難日の前の日を「緑の木曜日」と呼び、その日に七種類のハーブで作った緑のソースを「初物」として食べるという伝統があるのだそうです。七種類のハーブで作るというのですから、「春の七草」のようですね。

 この箇所には、十字架上でイエスが語られた七つのことばのうちの二つが記されています。

 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」が一つめ。ご自分を十字架につけた人々のためにとりなしておられるのです。「こんな祈り、こんなことばは初めて聞いた」と、私は47年前のある夜行った教会で聞いたメッセージを聞いて思いました。そして、このことばがきっかけで私はイエスを心に迎えました。

 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」が二つめのことばです。イエスは十字架上の苦しみの極みにあって、なお小さな信仰を表す人に「いっしょにパラダイスにいます」と約束するのです。この二つのことばの前にずっと立ち続けるだけでも、イエスがキリストであることが伝わってきます。


ちょうど

2018年03月29日 | ルツ記

ルツ記 4章

 あっという間にルツ記が終わろうとしています。

 ナオミもルツも、そしてボアズも、自分がよい思いをすることではなくて、ともに歩む人のためにできるだけ善きことを図ろうとする思いを持つ人々です。その人々が、自分の置かれている生活の場においてこの生き方を貫こうとする先に、神のご計画が前進するという未来への広がりが見られるのだというのが、今回の通読で思ったことです。ボアズ〜オベデ〜エッサイ〜ダビデ……そしてイエス・キリストへと。

 そのような人々のために神が御手を伸べてくださるのを、本章からも知ることができます。

 1節の「ちょうど」ということばも、その一つ。筋書きどおりになるというのでしょうか。もちろん、ボアズは自分なりの考えを進めていこうと決意して町の門のところへ行ったことでしょうが、このような筋書きを書いていたのは、ボアズではなくて神でした。

 そのようなことを考えているうちに、水曜日の教会での祈祷会のあとに、出席者5名である方を訪ねたことが思い浮かびました。私たちの教会は、昨年の今頃から礼拝する場所を探し求めてきました。大変お忙しい方で、約束なしに会えるなどということはないとも聞いたのですが、突然伺った私たちのために時間を取ってくださいました。

 「はからずも」をはかってくださるお方、「ちょうど」にアレンジしてくださるお方を信じて、隣人を愛するということを、足りないながらもさせていただく上での勇気をいただいた思いです。


大麦六杯と…

2018年03月28日 | ルツ記

ルツ記 3章

 本章は、ルツがボアズにプロポーズをする場面。「みことばの光」が書くように、女性から男性へ、年下から年上へ、身分の低い者から高い者へ、外国人の女性からイスラエル人へと、どの一つをとってみても当時としては驚くようなことだったに違いありません。ナオミのアドバイスもあったことでしょうが、やはり落ち穂拾いをする中でボアズに好意を抱いたということが、大胆な一歩を踏み出したことへとつながったのでしょう。

 受け止めるボアズは「あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています…」と声をかけます。「先の誠実さ」とは夫の死後、ナオミにしたことや故国を離れてベツレヘムまで来たことを、「今回の誠実さ」というのは、ベツレヘムに来てから若い男を追いかけることがなかったということを指しています。

 この夜も、「あなたの覆いを、あなたのはしための上に拡げてください」とのルツからのプロポーズのことばが、誠実さゆえに出たることを知って、彼もまた誠実に答えようとしています。誠実に対して誠実に答える、ここに人と人とが結ばれる鍵があることを教えられます。

 ルツは明け方、大麦六杯を背負って帰宅しました。しかし、その肩に背負われていたさらに重い「おみやげ」が見えています。

 ルツのような、あるいはボアズのような誠実さを持っているかと問われれば、そうありたいと願いながらも足りない者であると知らされます。神の恵みゆえの誠実さによって自分の今があることをおぼえるなら、感謝が尽きません。


はからずも

2018年03月27日 | ルツ記

ルツ記 2章

 聖書には多くの人物が登場しますが、もちろん、実際にはどのような姿形をしていたかを映像で確認することはできません。ルツはどんな人だったのだろうか、ボアズは…と。

 十年以上も前に、アメリカのペンシルバニア州にある聖書をテーマにミュージカルを上演する劇場で「ルツ記」を観ました。今回の通読でも、その時の役者さんの顔が重なってきます。

 2章は、やがて結ばれるルツとボアズとが出会う場面です。「みことばの光」でも3節の「はからずも」ということばをキーワードにしていますが、私の心に留まったのも、このことばです。

 改めてこの箇所を読むと、ツルが落ち穂を拾いに行った畑がはからずもボアズの畑でした。しかも、彼はナオミの夫エリメレクの一族に属する、しかも「有力な親戚」なのです。狙ってその畑に行ったのではないのに…と驚かされます。

 そして、ボアズはずいぶんとルツに対して親切なのですね。11節からあとを読みますと、ボアズはルツについての話を詳しく聞いていたことがわかります。それにしても、なぜこれほどまで親切にするのでしょうか。やはりそこに、主の大きな計らいをおぼえざるをえません。

 そのように考えてみますと、よく言われることですが、私たちが普段経験していることに、偶然はないのだということに改めて気づくのです。不幸だと思えることにも、ラッキーだと小躍りするようなことにも、神の深いお取り計らいがあるのだと受け止められるところから物事は始まるのではないか、と思うのです。


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