みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

内面を照らす光

2012年07月31日 | ヨハネの福音書
ヨハネの福音書8章1ー11節


 帰宅した次女が、テーブルクロスの変化に気づいて言いました。
 「寒色系だと体感温度が下がるんだって。」夏らしい、水色のチェックのクロスに変えて、確かにちょっぴり涼しそうです。
 我が家の電球のLED化率はおよそ20パーセント。冬の寒々しさを考えて暖色系のランプにしているのですが、夏はダメ。むしろ暑苦しくなってしまいます。最近のLED照明の中には、「調色」できるものも増えているので、器具を変えるときには検討してみたいと思います。

 「みことばの光」には「ここに、律法学者らが従った「光」と、イエスが放つ「光」とが対峙(たいじ)している」とありました。律法の光は内面を照らすには不十分であり、イエスの光は、「この女をどうする!」と責め立てる人々の心の罪を照らし出すことになったというのです。

 人の内面が照らされる光が売り出されたら売れるだろうか、それとも…と考えました。もしかしたら、ごく限られた職種の人は興味を抱くかもしれませんが、多くの人は勘弁してほしいと売れないかもしれません。誰もが持っている心の中の闇。イエスが放つ光によって、闇に光が差し込むばかりでなくて、闇を追い払い、前に向かって進んでいく希望へと結びつくことができるのだということを改めて思いました。だからこそ、イエスの「今からは決して罪を犯してはなりません」が重く響きます。
 新しい月を希望をもって迎えたいです。

 今日から、長野県松原湖の小学生キャンプです。金曜日までの三泊四日の奉仕のためにお祈りください。
 



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わたしのもとに来て

2012年07月30日 | ヨハネの福音書
ヨハネの福音書7章37-53節

 
 暑中お見舞い申し上げます。
 夏の暑さとロンドンオリンピックの中継放送などで、寝不足の方もおられるのではないでしょうか。お大事になさってください。
 柔道の中継を見ましたが、いつの間にか柔道は点稼ぎの猫のじゃれ合いみたいになってしまったなぁ、というのが素人の感想。投げが見たいと思うのですが…。

 写真は子どもキャンプの一コマ。「お鍋は空っぽ」 Img_3370

 イエスの大声での宣言、そして教えは、聞いた人々に混乱と分裂を引き起こしていました。
 「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」
 「この方はキリストだ。」
 「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」

 一方、イエスを亡き者にしたいと画策している祭司長、パリサイ人たちは、思うように事が運ばないのにいらだっています。群衆のある者も、指導者たちも「ガリラヤからキリストは出ない」「ガリラヤから預言者は起こらない」という先入観がじゃまをしているのです。

 しかし、イエスのもとに来たことのあるニコデモは、慎重な判断を求めます。彼は議員の一人でしたのが、イエスとの会見(3章)を経て、イエスの「隠れた弟子」の一人になっていたのだと考えられます。

 もう一人、1章のナタナエルを思い出します。ピリポからイエスのことを聞いたナタナエルは、初めは「ナザレから何の良いものが出るだろう」と疑いました。しかし、ピリポの「来て、そして、見なさい」に促されてイエスに直接会いに行きました。やがて、彼は「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白し、イエスの弟子となるのです。

 「わたしのところに来て…」とのイエスの招き、命令に応えることの大切を覚えます。

《おわびと訂正》本日の「みことばの光」71頁下段聖書箇所に誤りがありました。正しくは「ヨハネの福音書 7章37ー53節」です。おわびして訂正いたします。




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自分の栄光を求める

2012年07月28日 | ヨハネの福音書
ヨハネの福音書7章14-24節


 目覚まし代わりのラジオが、ロンドンオリンピックの開会式の模様を実況中継していました。いつも思うのですが、ラジオの中継アナウンスは、聞いている人が映像化できるように、そこにいて楽しんでいるかのようにするのだと思うので、きっと大変なのだと思います。ちょっともどかしくなったので、テレビをつけましたら、「ああ、なるほど!」と納得。
 「聖書を読む」のも、登場する人々のやりとりなどから息遣い、雰囲気、会話のトーンなどを想像しながら読むと、黙読ではわからなかったことに気づくことがあります。
 イエスとユダヤ人の指導者たち、そしてイエスと群衆たちとのやりとりは、どうだったのでしょうか。

 イエスの教えはユダヤ人たち(「みことばの光」では「ユダヤ人の指導者たち」と説明します)を驚かせたとあります。彼らはイエスの教えに謙虚に耳を傾けなければならなかったのに、評論家然として「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」と驚きます。このことばには、「自分たちは正規に学んだのだ」という、自分たちの誇りがにじみ出ています。

 そして、彼らの誇りがイエスをメシヤ、救い主として受け入れることを最後まで阻(はば)むのです。自分の栄誉を求めて学び働いている彼らには、とてもガリラヤから出た「ナザレ人イエス」を自分たちと同列に置くことはできませんでした。

 前提、先入観が「正しいさばき」(人を正当で公平に見ること)を妨げる…私たちのいつもの課題です。
 

 



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私たちと同じように

2012年07月27日 | ヨハネの福音書
ヨハネの福音書7章1ー13節


 ブログの更新が遅くなってすみません。
 三日間の子どもキャンプが終わりました。きれいな河畔のキャンプ場でしたので、それほどの暑さは感じなかったのですが、戻ってみてびっくり。37度以上もありました。
 ともあれ、34名の参加者が無事に戻ってこられてほっと一安心でした。今回のキャンプには、教会や聖書は初めてという小学生が多く参加したのですが、みんなよく聖書の話を聞き、学んでいました。
 写真は、涼しそうな子どもたちです。 Img_3336


 5節に「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と記されています。イエスはヨセフ家族の長子として育ち、弟たちは兄のふるまいやことばを身近に見聞きしていたにもかかわらず、イエスをメシヤとして信じることなく、突き放したようなことばをイエスに投げかけます。
 いや、むしろ兄弟だからこそ、兄が神が約束するメシヤであると信じがたいという思いが強かったのかもしれません。ユダヤでは、イエスを殺そうとユダヤ人たちがイエスを待ちかまえ、郷里ではここにいないでユダヤへ出て行けとばかり、イエスを受け入れない兄弟たちがいるのです。

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4章15節)を思いました。
 しばしばキリスト者は、自分のイエスへの信仰を家族に理解してもらえないという問題を抱えます。それは、家族以外の人に受け入れてもらえないこと以上に辛いことです。

 兄弟の無理解に遭われた主イエスは、そのような信仰者の心に触れてくださっていると思うならば、慰めや励ましを得られるのでは、と考えたのです。



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弟子のつもり

2012年07月26日 | ヨハネの福音書
昨日から、子どもたちといっしょにキャンプに来ています。教会から1時間ほどの場所ですが、川のほとりなので、とても涼しいです!
 明日までの三日間をメッセージを聞き、聖書を読み、ごはんを作り、夜には温泉にはいる…、そんなふうに過ごします。

 「パンのしるし」の結末は、弟子のつもりでいた多くの人々がイエスから離れてて行ったということでした。
 あくまでも、自分たちを満足する「パン」を求め続ける「弟子」たちと、わたしが「天から下って来たパン」だと言われるイエスとの溝は埋まりませんでした。 
 弟子とは師の傍らにあって、学び続ける者です。自分の考えや確信と師であるイエスのお考えが違うならどうすればよいのかを、常に探られています。「弟子のつもり」であってはならないと…。

  
 

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