みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「はい」と言う者、つまずく者

2014年05月31日 | マタイの福音書
マタイの福音書13章47-58節

 2014年5月がきょうで終わります。Img_1930
 私にとっての5月はとても長く感じました。障がい者支援施設を運営している法人の理事会や総会の準備があったりしたということもありましたが、いろいろな出来事が起こりながらも、なかなか前に進まないということも、長いと感じる理由なのかもしれません。
 ともあれ、無事にこの月を終えることができる幸いを、神に感謝しています。

 たとえを話し終えたイエスは、弟子たちに確認されました。「はい」という答えを受けて、弟子たちにあなたがたは新しい物でも古い物でも宝物を取り出すことのできる一家の主人のような、学者だとおっしゃるのです。
 学者としての正規の訓練を受けていない弟子たちに、「わたしが教え訓練したのだから学者なのだ」とお墨付きを与えておられるのです。このイエスのこのおことばは、やがてイエスが十字架にかかり、復活し昇天したあとに現実になります。

 ナザレの人々はイエスにつまずきました。イエスの教えに驚きながらも、父親も母親もそして兄弟も何も特別ではないのに…とつまずいたのです。「つまずく」とは信じないということ。

 神のことばが語られると、一方には「はい」と信じる者がいて他方にはつまずく者がいる…。今も変わりません。
  


売り払っても…

2014年05月30日 | マタイの福音書
マタイの福音書13章36-46節


 かかわりのある障がいある人たちの支援施設では、県の障がい者支援施設のお菓子コンテストにエントリーしようとしています。出店するのはこれっ! Dsc07523
 ブランデーに3ヶ月漬け込んだフルーツがたっぷりのフルーツケーキ。さて、結果はいかに?

 畑に隠された宝を見つけた人の気持ちと行動、良い真珠を探している商人が素晴らしい真珠一個を見つけたときの気持ちと行動、それは、天の御国を見つけたときに弟子たちに味わう(べき)気持ちと行動なのだというのです。
 今で言うなら、骨董品やさんできらりと光る名品を見つけた人が、他の人に知られないうちに、銀行で有り金全部を下ろしてまで購入しようという気持ち…なのでしょうか。

 何を売り払ってでも手に入れたい! この一つが手に入ればもう充分! というのが、天の御国。ところで、イエス・キリストを信じて天の御国の民とされているのを、こんなにもすごいことだと喜んでいるのでしょうか。

 こんなにも素晴らしいものを、しかも、ただでちょうだいするなんてこんなに素晴らしいことはないと、朝ごとに夕ごとに神に感謝し、自らに言い聞かせ続けることができたら、きっと毎日が感謝と喜びで満ちます。ちょっとやそっとつらいことがあっても、なんのその! と乗り越えられそうです。


いつかわかる日が…

2014年05月29日 | マタイの福音書
マタイの福音書13章24-35節


 ミツマタの間に初夏らしい花が咲いていました。Photo

 きょうも暑くなりそうです。

 毒麦のたとえ、からし種のたとえ、そしてパン種のたとえ。これらに共通していることは何だろうと、考えてみました。今はそうではないけれども、いつか変化に気づく時が必ず来るということでしょうか。

 イエスは人々の間で神の国を宣べ伝えられました。そこで弟子たちが期待するのは、こんなにもすばらしい話が、こんなにもすばらしい方から語られるのだから、すぐにでも世の中が変わるということでした。事実彼らの一部は、イエスがこの世の王になった時のための立場を確保しようとする「気の早い」者もいました。
 このような、待ちきれない人たちにイエスは語っておられるのです。

 今は良い麦も悪い麦も混在しているけれども、やがてこの世界は間違いなくイエスにある御国の子どもたちと、悪い者たちに二分するというのです。また、今人々の心に蒔かれた神のご支配は周囲もその人自身も気づかないほどのものですが、やがてだれにでも認められるほどのものに育っていくというのです。

 発酵食品が健康に良いと人気です。
 我が家でもぬか漬けをしています。キュウリやにんじんなどの野菜をぬか床に入れて一晩経つと、おいしい漬け物になっています。でも、早く食べたいからといってもすぐにできるものではありません。時間がかかるのです。

 いつかわかる日が来る、いつか実を結ぶ日が来ると信じて良い種を蒔く者に、また自分のうちに蒔かれた良い種が育つことを喜びとしたいと思います。


ですから、…聞きなさい

2014年05月28日 | マタイの福音書
マタイの福音書13章10-23節


 グミがたくさん。Photo
 数日前にはなかったのに不思議ですねぇ。今日の朝歩きからは半袖になりました。それでも、家に着く頃には汗をかいています。

 岸辺を離れつつある舟の中で、弟子たちはどうしてたとえでお話しになったのですかと尋ねました。彼らは、イエスが種をどこに蒔いたらゆたかに実るかを教えられたのではないということを知っていたのです。
 この話には深い意味がある、それなのに、なぜ群衆にそれを話されなかったのだろうと疑問を抱いたのです。

 イエスの答えは明白です。あなたがたには聞くことが許されているが彼らには許されていない、というものでした。

 心に留めたのは「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい」とのイエスのおことば。
 弟子たちは、イエスのみわざを見、イエスのことばを聞いているから幸いだというのです。それは、弟子たちにイエスのみわざを見、みことばを聞く特別な力があったからではなく、神からの祝福だというのです。

 イエスの弟子とはイエスのみわざを見、聞くことのできる者。この祝福を神から得ているのです。「だから、…聞きなさい」と主は促し励ますのです。

 この祝福を心から喜んでいるだろうか。聞いているだろうか…。
      


耳のある者は聞きなさい

2014年05月27日 | マタイの福音書
マタイの福音書13章1-9節


 神学校というところで学んでいた時のこと、「種蒔きのたとえは何章に?」「山上の説教は何章?」「五千人の給食は?」「四千人の給食はどこ?」などということを覚え、確認する小テストがありました。語呂合わせを考えたりして詰め込んだものです。
 たとえば、五千人の給食が14章なら、四千人の給食は15章という具合に…。そのついでといっては何ですが、主イエスのたとえは13章というのも覚えられました。それでは12章には…?と聞かれると「うーん…」

 「たとえば…」というと、難しいことをわかりやすくするために用いるのが普通ですが、主イエスのたとえは違います。今月号の「みことばの光」62,63頁の「神の国のたとえ」によると、「主イエスは群衆には必ずたとえで語り、弟子たちだけがその後に主イエスの説き証しを聞いて理解できた」とあります。
 そのわけを主イエスは「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見て入るが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」と話されます(13節)。

 ですから、聞く人によって「種蒔きのたとえ」は、そんなこと当たり前だとして聞き流してしまうようなものだったのです。私たちには、完結された神の啓示である聖書がありますので、たとえで話されたことの意味を主イエスが説き明かしてくださったのを知ることができます。ありがたいことです。

 だからこそ「耳のある者は聞きなさい」というイエスの促しを覚え続けます。
     


2011-2024 © Hiroshi Yabuki