みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

心を傾ける

2018年07月09日 | ヨシュア記

ヨシュア記 24章

 昨日は当地で「トライアスロン」がありました。そのためにコースになっている道路は通行止め。教会への道も…。去年は予め対応をして来るべき道を皆さんにお知らせしたのですが、今年はうっかりしていました。そんなこんなで、途中で車を止めて歩いて礼拝に来る方がほとんどでした。そして昨日は特別の日。2年近く一緒に礼拝し続けた方が今週日本に本帰国されるのです。ご家族も出席してくださいました。

 小さな群れに活気をもたらしてくださった方を送り出すのには寂しさを覚えます。けれども、これは海外邦人教会のかたちなのです。主が派遣されるところで豊かに用いてくださるようにと祈りました。

 ヨシュア記は終章。ここでは死を迎えようとするヨシュアと残された民の間で、神に従うという契約が更新されています。ヨシュアは初めに、神がヨシュアにお語りになったことを集まった人たちに伝えます。それは、アブラハム以来のイスラエルのこれまでの歩みを神が導き、祝福してくださったということです。

 神さまは、ご自分がイスラエルに何をしたのかを覚えておられるのです。当たり前だ! とお叱りを受けるかもしれません。確かに、神はご自分でなさったことを覚えておられます。しかし、神がヨシュアに、そしてヨシュアが民にこのことを語るというのは、「あなたがたも覚えてほしい」という神の御思いの表れのように響きます。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」という詩篇103篇のことばを思います。

 そして、民はヨシュアの呼びかけに答えて「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」と答えるのです。しかし、民は異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」というヨシュアの呼びかけに、「異国の神々を取り除く」とは応じてはいません。主の御声に聞き従うとは、具体的な行動という事実が続くはずなのに……と、気がかりです。

 「心を傾ける」ということばを心に留めます。

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大きな祭壇

2018年07月07日 | ヨシュア記

ヨシュア記 22章21−34節

 ヨルダン川の東側にある自分たちの相続地に戻って行ったルベン、ガド、そしてマナセの半部族は、ヨルダン川のほとりに祭壇を造ります。しかも、遠くから見えるほどの大きな祭壇でした。

 けれども、これが西側に相続地を割り当てられたイスラエルの残りの部族に不信を抱かせることとなりました。そこで、祭司ピネハスと西側の各部族から1名ずつの代表が東側に行き、東側の民が祭壇を築いたのは神の律法に背くことだと非難した、これが22章前半に書かれたことでした。

 後半では、大きな祭壇を築いた東側の二部族半の民が祭壇を築いた理由を明らかにし、それを聞いた代表たちが満足し、代表たちの報告を聞いた西側の民も満足するという結末が語られています。

 東側の民が祭壇を、しかも大きな祭壇を築いた理由は、全焼のささげ物のためでもいけにえをささげるためでもなく、西側の民が大きな祭壇を見て、東側の民も自分たちと同じイスラエルの民なのだということを覚え続けるようにということでした。ヨルダン川を挟んで東西に分かれ住んでも、自分たちは同じ民族なのだと後代にわたって覚え続けていたい、特に西側の子孫にそのことを覚え続けてほしいとの思いが込められた祭壇だったのです。

 「みことばの光」は、「神に選ばれ、出エジプトを経験し、数多くの戦いを共にしてきた同胞でも、川を挟んだだけで疎外と断絶を危惧しなければならないほど、人間の結びつきとは、はかないもの」と書いています。東側の部族は大きな祭壇に自分たちの思いを込めました。「つながり」が大切だと多くの人が唱えます。たくさんのツールがそのために使われています。

 信仰者は、キリストの十字架が神と人、人と人とをつなげるものだと信じています。十字架の福音を携えて、つながるという務めに遣わされたいと願います。

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もう一つの祭壇

2018年07月06日 | ヨシュア記

ヨシュア記 22章1−20節

 当地はこのところ雨が降りません。公園の芝生も所々黄色になっています。木々も水がほしいという表情のように見えます。散歩の帰り道にパラパラとあったのですが、ほんのわずかで止んでしまいました。一方で日本では大雨の被害が出ているというニュース。なかなかうまい具合にはいきません。

 22章は、ヨルダン川東側(トランスヨルダン)に割り当ての地を得ていながら、全イスラエルがヨルダン川西側に相続地を得るまで、一緒に西に渡って戦ってきたルベン、ガド、そしてマナセの半部族が、割り当てが完了して自分たちの相続地に戻る際に起こった事件のことが記されています。

 ヨシュアは二部族半にねぎらいのことばをかけ、帰還を許可し、主を愛し仕えて歩むようにとの命令を与えます。いよいよ、彼らは定住に向けてのほんとうの戦いが始まるのです。それにしても、この二部族半の献身はすばらしいものだったと思います。今なら、「オールイスラエルの絆を保って」などと言われることでしょう。自分たちの小さな利害を越えて、神の働きに携わることのすがすがしさのようなものをおぼえます。

 彼らはヨルダン川東側への帰還に際し、河畔に大きな祭壇を築きます。その理由は後で明らかになるのですが、それを見た西側の部族は彼らの行動を問題だと見るのです。彼らが勝手に祭壇を築いたのを律法を破ることであり、分派行動だと考えたのです。

 そして西側諸部族は、祭司ピネハスと各部族一人ずつの族長を東側に送ります。そして、東側の二部族半がしたことを主に対する反逆だとして、自分たちがともに経験した反逆の例を挙げて非難しました。

 何事かが起こったときに、信仰者は何を優先しどのように行動するかということについて、真に愛するとはどのようなことなのか、ということについても、西側が取った態度から教えられます。「そのうちわかるだろう」とか「面倒くさいことは言わないでいよう」などというのは、解決を遠のけていることになるのではないだろうかと、考えるのです。

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すべて実現した

2018年07月05日 | ヨシュア記

ヨシュア記 21章27−45節

 郵便物を出しにいつもの郵便局に行くと…。閉まっていました。郵便局も夏休みをするのか…とドアに貼られていた紙を見ると、きょうからこの場所での業務は行わないとのこと。仕方なくちょっと離れた郵便局まで行きました。私たちにとってはとても親切な方々だったのに、残念! 合理化でしょうか。

 21章後半は、「レビ人の町」のうちのゲルション族とメラリ族に与えられた町の名前が書かれています。ちなみに、ゲルション族は幕屋(会見の天幕)での奉仕のうち、天幕、垂れ幕、掛け幕、ひもなどを管理する務めを行い、メラリ族は、幕屋の板、横木、柱、台座などを管理する務めを行っていました。

 ゲルション族はガリラヤ湖を中心としたガリラヤ地方13の町を、メラリ族にはカルメル山のふもとからヨルダン川の東側に点在する12の町を与えられています。

 21章を読みながら、地図の中に48の町を置いていきました。特定できない場所もありましたが、ざっと見ると、アロンの子どもたちがヘブロンを中心とするユダ部族の割り当て地に、ケハテ族はその北側にある中央部に、ゲルション族はさらにその北側、そしてメラリ族はおもにヨルダン川の東側に与えられているのがわかります。「レビ人の町」は、イスラエル12部族への割り当て地の各地に概ね広がっていたのです。

 勝手な想像ですが、これは、イスラエルの各部族が自分たちの割り当て地の中に「レビ人の町」があることによって、神を礼拝するということを覚え続けられるようにという配慮を神がなさったのではないのでしょうか。

 この章の最後の「すべて実現した」ということばが心に留まります。「みことばの光」が書くように、実際にはなお「取るべき所、なお多し」なのです。ですから、最後のことばは預言的なニュアンスを含んでいるのではないでしょうか。

 神の約束、神がお語りになったことを信じて歩むことが、ヨシュアの時代の民に、そして私たちに求められているのです、「実現した」ということばを励みにして…。

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わたしがあなたの割り当て…

2018年07月04日 | ヨシュア記

ヨシュア記 21章1−26節

 きのうの夜7時過ぎに買い物に出かけましたが、二つのお店とも普段と違って人がいません。多くの人が夏休みでどこかに行っているのでしょうか。それとも、サッカーワールドカップを観ているのでしょうか。次第にトップに上り詰めるチームが絞られてきましたね。

 21章には、レビ部族に住む町と家畜の放牧地が与えられることが書いてあります。主はレビ部族には相続地を割り当てることはなさいませんでした。彼らは神の幕屋の奉仕、後に建てられると神殿での奉仕に就(つ)く人々であり、イスラエルの民の収穫の十分の一がレビ部族に与えられていたので、割り当てられることがなかったのです。

 きょうの「みことばの光」にも引用されている民数記18章20節には、主が大祭司アロンに言ったことばが記されています。

 「あなたは彼らの中で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」「ゆずり」ということばは「相続」とも訳されます。ここで主がアロンに言われたことは、イエス・キリストにある新しい契約のもとにいる、すべての人々へのことばだとも言えます。

 土地を購入する、家を建てる、農場を経営する、事業を営む…。私たちが生きている間には、財産と言われるもの何かを所有するのですが、それは神から一時的に預かっているようなものであり、いつかは神にお返しするものです。私たちにも神は「わたしがあなたの割り当て」だと、声をかけておられるのではないでしょうか。

 ところで、神のことばを聞いたアロンは何を思ったのでしょうね。「エッ? いただけないのですか」と不満だったのでしょうか。もちろん、そのようなことはありません。いよいよ熱く、主に仕えたのではないのか…と想像するのですが…。

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