ヨシュア記 24章
教会が欧州のハブ空港を持つ町にあるので、旅行者の方も礼拝に参加します。昨日出席された方を州週間前から出席するようになった方が知っていたという不思議なこともありました。旅行者が増えてきたのをこのようなことからも感じるこの頃です。
ヨシュア記が終章を迎えました。
ヨシュアは、イスラエルの民の前で神のことばを届けています。それは回顧に始まります。しかもヨシュア個人のものではなくて、神がイスラエルの民のために何を行ってこられたかについての、神ご自身の回顧です。心に留まるのは、「わたしは……した」ということばが続くこと。アブラハムが登場するのは創世記11章後半からなのですが、ここにはアブラハムが…をした、イサクが…をした、ヤコブが…、そしてモーセとアロンが…をしたと言われているのではないのだということに気づかされます。
教会は、その歩みを振り返るために記録します。記念誌としてまとめる場合もあります。後の世代の人々が、先の世代の人々がどのように歩んだかを知ることによって、誰が立派だったとか、誰がしくじったとか(そのように書く記念誌はほとんどないかと思いますが)ということを羅列するだけなら、大切な何かが抜け落ちているように思われます。教会の歩みはそこに連なる人々の歩みでありますが、それは人の功績を讃えたり失敗を嘆いて終わりではないのです。神のみわざの振り返りです。
前の世代はがんばったなぁと感心して終わるのではなく、それはまた、今の世代、次の世代に主の前にどのように歩むかの決断を促すものでもあります。「今、あなたがたは主を恐れ……主に仕えなさい」と決断を迫る14節のことばが目に留まります。