みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

今、あなたがたは……

2023年06月26日 | ヨシュア記

ヨシュア記 24章

 教会が欧州のハブ空港を持つ町にあるので、旅行者の方も礼拝に参加します。昨日出席された方を州週間前から出席するようになった方が知っていたという不思議なこともありました。旅行者が増えてきたのをこのようなことからも感じるこの頃です。

 ヨシュア記が終章を迎えました。

 ヨシュアは、イスラエルの民の前で神のことばを届けています。それは回顧に始まります。しかもヨシュア個人のものではなくて、神がイスラエルの民のために何を行ってこられたかについての、神ご自身の回顧です。心に留まるのは、「わたしは……した」ということばが続くこと。アブラハムが登場するのは創世記11章後半からなのですが、ここにはアブラハムが…をした、イサクが…をした、ヤコブが…、そしてモーセとアロンが…をしたと言われているのではないのだということに気づかされます。

 教会は、その歩みを振り返るために記録します。記念誌としてまとめる場合もあります。後の世代の人々が、先の世代の人々がどのように歩んだかを知ることによって、誰が立派だったとか、誰がしくじったとか(そのように書く記念誌はほとんどないかと思いますが)ということを羅列するだけなら、大切な何かが抜け落ちているように思われます。教会の歩みはそこに連なる人々の歩みでありますが、それは人の功績を讃えたり失敗を嘆いて終わりではないのです。神のみわざの振り返りです。

 前の世代はがんばったなぁと感心して終わるのではなく、それはまた、今の世代、次の世代に主の前にどのように歩むかの決断を促すものでもあります。「今、あなたがたは主を恐れ……主に仕えなさい」と決断を迫る14節のことばが目に留まります。


ただ、……

2023年06月23日 | ヨシュア記

ヨシュア記 22章1−20節

 「嵐が来る」との予報どおり、夕方6時過ぎに強い風とともに激しい雷雨が降ってきました。日中蒸し暑かっただけに、この夕立は助かりますが、人間の期待どおりに適度に降るとは限りません。

 モーセの時代にヨルダン川の東側(トランスヨルダン)に相続地を割り当てられた、ルベン、ガド、そしてマナセ部族の半分は、ヨルダン川の西側の地の割り当てが完了するまでは、妻子や家畜を東側に残して、他の部族とともに西側に渡ってともに戦うと約束し、実際にそのようにしました。そして割り当てが完了したこの時、彼らは東側に戻って行きました。

 彼らは西側でともに戦っていたのですが、この間、東側のことがきっと気掛かりになったはずです。しかし、主の命令に従ったのですから、彼らの留守を主が守ってくださったに違いないと想像することができます。

 5節にある「ただ、主のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい」と言うヨシュアのことばに目が留まります。

 生活の中で、次々に気掛かりなことが起こります。一件落着かと思ったら、次にまた難題が降りかかってきます。大きなこと、小さなことと、問題のない日はないと言い切ることができるかもしれません。どの問題から先に手をつければよいかととも思います、あれこれといろいろな思いや考えが脳裏をよぎるなか、何を優先させるのかということについて、ヨシュアのことばは考えさせてくれます。「ただ、……なさい」ということばが……。


すべて

2023年06月22日 | ヨシュア記

ヨシュア記 21章27―45節

 家族が今年も梅干しを漬けてくれることになり、昨日梅農家に買いに行きました。有機栽培の梅で、いろいろな方からの注文を加えると、90キロもの梅を買ってきたとのこと。美味しい梅干しがいただけるのを楽しみにしています。

 「レビ人の町」の後半は、レビ部族のうちのゲルション族とメラリ族への割り当てのことが書いてあります。レビ部族はヤコブの三男レビの子、ゲルション、ケハテ、メラリの子孫からなっています。

 ゲルション族は幕屋の奉仕では、天幕についての務めを与えられていました。また、メラリ族は幕屋の周りの板を組み立て、移動の際には解体し、そして運ぶという務めを与えられていたのです。

 そして、ゲルション族にはマナセの半部族、イッサカル部族、アシェル部族、ナフタリ部族の割り当て地の中に「レビ人の町」が与えられ、メラリ族には、ゼブルン、ルベン、ガドの各部族の割り当て地の中に与えられました。

 43節から45節はヨシュアを用いて、主が割り当て地分割を完了したことを伝えています。ここに繰り返し用いられている「すべて」ということばに目が留まります。ここでの「すべて」は、彼らの父祖たちに約束したことのすべてを神が与えられたということであり、それを保つ務めは民にあるのです。そして、そのための最も基本は民と神との関係。

 ここを読んで、主イエスが十字架上で「完了した」といって息を引き取られた場面を思いました。完了した救いのみわざを、私たちはそのまま受け止めているのだろうかと……。


レビ人の町

2023年06月21日 | ヨシュア記

ヨシュア記 21章1−26節

 カラカラだった大地に、待望の雨が降りました。一方で、雨の被害が懸念される場所もあります。昨日自宅で行われた聖書の時間では、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」と書かれたローマ人への手紙8章22節も読みました。

 ヨシュア記21章は「レビ人の町」についての記事です。

 レビ部族にはカナンの割り当て地は与えられていません。神を礼拝する務めをもっぱら担うようにされたレビ部族にとっての相続の地は、主ご自身だと申命記18章2節にあります。「彼ら(レビ人)は、その兄弟たちの部族の中で相続地を持たない。主が約束されたとおり、主ご自身が彼らのゆずりである。」彼らは他の部族が主にささげる収穫の十分の一を自分たちの糧を得ることができ、主への奉仕に専念できるのです。これは、神との新しい契約のもとにある教会の奉仕者が支えられるための道にも通じるものです。

 ケハテ、メラリ、ゲルションというレビの三氏族に加えて、ケハテ族の中で祭司職を勤めるアロンの子孫たちへの合わせて四つのグループに、他の部族に割り当てられた地のうち48の町々が、彼らが住むために、家畜の放牧地として「レビ人の町」として与えられました。

 このことがレビ人の不満、要望によって為されたのではなくて、神の約束どおりに行われたということに注目したいと思いました。ヨシュアの時代のレビ人だけでなく、私たちにも毎日さまざまな必要があります。そのうちのあるものは自力で手に入れることができます。またあるものは、だれかに要望して自分のものとするかもしれません。そうであったとしても、すべてのものを神が与えてくださるのだという事実を、忘れてはならないのだということを気づかされました。


大祭司が死ぬまで

2023年06月20日 | ヨシュア記

ヨシュア記 20章

 お休みの月曜日午後、川のほとりにある歴史のある町を散策しました。電車は行きも帰りも遅れましたが…。

 この章には、「逃れの町」を定めることが書かれています。

 それは、2節にあるように、「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、復讐する者から逃れることができるようにと設けられた町です。「意図せずに」について、神はすでにモーセを通して事例を挙げておられます。

 民数記35章22-23節では、「もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら」と具体的に事例を挙げています。

 申命記19章5節では、「隣人と一緒に、木を切り出そうと森に入り、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、斧の頭が柄から抜けて隣人に当たり、その人が死んだ場合」とあります。

 わざとでなく人のいのちを奪ってしまうということは、今でも起こりうること。しかし、大切な家族や友を殺された者にとっては、それが意図しないことであったとしても、穏やかではいられません。中には強い恨み、そして殺意を抱く者もいます。「逃れの町」は復讐の連鎖に陥ることがないように定められたものです。

 よく知られている「目には目、歯には歯」は、相手に与えた損害と同じ損害を加害者は支払わなければならないということであり、それはそれ以上を加害者から奪ってはならないということを意味しました。ですから、いのちを奪った者はいのちを奪われるのです。誤って人のいのちを奪った者にとっての代償とは「逃れの町」から出られないということでした。

 6節の「大祭司が死ぬまで」ということばに目が留まります。まことの大祭司イエスの十字架の死が、すべての人を罪からか移封してくださったということをここから覚えます。


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