みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

回復

2021年12月18日 | ヨブ記

ヨブ記 42章

 

 日本から荷物が届きました。開けてみると調味料やお菓子、そばに餅、海苔…などたくさんの食べ物! 正月のための食材でした。送り主に感謝を伝えると、三日前に送ったとのことで、「ずいぶん速かったね」と驚いていました。嬉しかったのはお煎餅が入っていたこと。

 ついにヨブ記が終章を迎えました。神からの直接の語りかけ、しかも圧倒的な神の大きさをこれでもかというほど突きつけられた彼は、自分の罪を悔い改めます。5節に「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」ということばが目に留まります。ヨブは、神が彼の五感で分かるようにしてご自分が創造された一つ一つのものをヨブに語ってくださることによって、見えない神を見ることができた、そういうことではなかったでしょうか。彼は自分のあるべき姿、立つべき所に立つことができたのです。

 神は三人の友人が回復するための道も備えられました。そのために、罪を悔い改めた「わたしのしもべヨブ」を用いられるのです。それはヨブのとりなしによるのです。ここから、神が私たちのために備えられた罪からの回復の道を思います。それは十字架にかかられたイエスのとりなしです。

 そしてヨブも回復するのです。

 今日の「みことばの光」には、「私たちは神について知っているのか、それとも神を知っているのか、どちらだろうか」という問いかけがありました。神の偉大さを知ることに卒業はありません。そして自分が神の前に何者であるかを知るということにも卒業はないのです。


聞かなければならなかったこと

2021年12月17日 | ヨブ記

ヨブ記 41章13ー34節

 私たちが洗礼を受けた教会の70周年の記念誌が送られてきました。懐かしい人々の名前が連なり、自分たちが教会に行き始めた頃のことを思い出します。こんなこともあった! と忘れていたこともよみがえってきました。

 レビヤタンについての神のことばは、細部に至ります。体を覆う皮に始まり、葉、背中、目、口、鼻、首、心臓、下腹…と続きます。創造者ならではの描写だと改めて思います。「口からは、たいまつが燃え出し、火花が吹き出す」などの表現を読むと、どこかで見たことがあるような気がしました。怪獣映画の「主人公」のようです。どこかユーモラスでさえあります。けれども、もし自分の目の前にこんな生き物が現れたとしたら、腰を抜かして歩けなくなってしまうに違いないとも思うのです。このようなことを思い巡らしていたら、怪獣映画を観に行って、あまりにも怖いので途中で家に帰ってしまった小学生時代を思い出してしまいました。

 最後に神はレビヤタンを「誇り高い獣すべての王」と呼ばれます。ライオンは百獣の王だと呼ばれますが、聖書ではレビヤタンなのですね。

 それにしても、なぜ神はヨブにベヘモトとレビヤタンについてこれほど詳細に語られたのでしょうか。ヨブが聞かなければならなかったことだからです。ヨブも含めて人間にはとても太刀打ちができないような「怪物」というべきこれらのものについて神が語るということは、神の偉大さを知らされるとともに、ヨブの心を強く探ったのではないかと思うのです。その神を不正だなどと自分が訴えたことについて…。


何一つ与えていない

2021年12月16日 | ヨブ記

ヨブ記 41章1−12節

 水曜日午前のオンライン祈祷会では、「みことばの光」のその日の箇所を読んで分かち合います。もうすぐヨブ記が終わることについて、「寂しい」という声があって、とても嬉しくなりました。一人では完読が難しい聖書も、みんなで分かち合いながら読むと最後まで読むことができるようです。

 河馬(ベヘモト)に続いて、神はレビヤタンをヨブに示します。日本聖書協会発行の共同訳聖書の一部には、旧約聖書と新約聖書の間に「旧約聖書続編」が置かれています。その中の「エズラ記(ラテン語)」6章49節に、神の創造の五日目にベヘモトとレビヤタンを造り、ベヘモトには山のある土地を与え、レビヤタンには海を与えたとの記述があります。イスラエルの伝説の中での動物として、この二つの動物はありました。ですから、実際の河馬や鰐というよりも、もっと大きく力の強い伝説上の動物なのかもしれません。

 神がここでヨブに問うておられるのは、レビヤタンを釣り上げて、自分の意のままに飼いならすことができるか、商人たちに売ることができるのかということです。私たちには??ですが、ベヘモトやレビヤタンの名前を聞いた時ヨブには、それがどんなに巨大なものかが分かっていたのです。

 8節の「その戦いを思い出して、二度と手を出すな」ということばに目が留まります。これは、ヨブはレビヤタンと戦ったということはなくて、レビヤタンと戦っていることを想像するだけで、手出しするなどとんでもないという意味なのだと考えられます。そして、「それらを造ったのはわたしだ」と、神はヨブに主張しておられるのです。

 11節の「だれが、まずわたしに与えたというのか」との神のことばも心に迫ります。そんなことできるはずがないのです。何かを与えなければ、神がお困りになるなどとの高ぶりが湧きあがってくることがある、と気づかされます。


取るに足りない者

2021年12月15日 | ヨブ記

ヨブ記 40章

 火曜日の朝、「ネットグループデボーション」に加えていただきました。読んだのはヨブ記39章。一人びとりのみことばの観察、そして発見に教えられることが多く、あっという間に2時間が経ってしまいました。カメラをオフにすることで、聖書に集中できるのだということが分かりました。あなたもいかがでしょうか?

 ついにヨブが口を開きました。エリフが話した時も、そして神が直接ヨブに話した時も、彼は沈黙し続けてきました。しかし、「神を責める者は、それに答えよ」という神の命令に答えたのです。そのヨブがしばらくぶりに発したことばは「ああ、私は取るに足りない者です」でした。これは、神がヨブに期待していた応答でした。

 ヨブがあれほど訴えていた疑問への答えが分かったのでしょうか。そうではありません。苦難の問題には何一つ答えは与えられていません。しかし彼は神がご自分の大きさ、強さ、深さを「これでもか」と言うまで語ってくださったことに満足したのです。それが、「私は取るに足りない者」との告白に現れています。

 沈黙し続ける神に自分の義を訴えるうちに、ヨブの内側には高慢が顔をもたげてきました。8節には、「自分を義とするために、私を不義に定めるのか」との神のことばがあります。神は、ヨブの高慢の鼻をへし折られますが、だからといってヨブを駄目にしようとしておられるのではありません。

 10―14節で神が語られるのは、ヨブにできるはずのないこと。すでに取るに足りない者だと告白している彼に追い討ちをかけるようなことばです。しかし、神の前に低くあるというのは知るべき人間の正しい立場です。神はヨブがそのことに気づくようにと促されるのです。


神は知っておられる

2021年12月14日 | ヨブ記

ヨブ記 39章

 「家庭iPhone教室」をしました。メールの開通、「聴くドラマ聖書」のインストール、日本からのラジオニュースを時間差で聞くことのできるアプリのインストール、そして、テレビ通話のやり方を説明することができました。遠く離れて住んでいますと、祖国のラジオニュースを聞くのはちょっとした楽しみでもあるのです。

 ここで神は、生き物の数々の生態を取り上げられます。ここに出てくるのは、野やぎ、雌鹿、野ろば、野牛、だちょう、馬、鷹、鷲です。神はヨブに野やぎと雌鹿が子を産む時の様子を知っているかと問われます。ヨブには答えられないことを神は知っておられるのです。

 神はなぜ知っておられるのでしょうか。答えは神がそれらをお造りになったから…ということになるでしょう。それとともに、神はこれら野生の生き物の出産の様子を、大きな関心を持って見ておられるのだとも考えられます。

 昨日本欄に、イエス・キリストのことばを記しました。それは、「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません」というマタイの福音書10章29節のことばです。そしてイエスは続けて「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです」と言っておられます。

 ヨブ記39章には人間の小ささ、限界を、神がヨブに思い知らせていることばが連なるのですが、それはまた、ヨブがここまでで味わってきた苦しみや嘆きを神はすべて知っておられたということをヨブに伝えていることでもあるのです。たとえ沈黙しておられたとしても、神はヨブのすべてを知っておられ、しかも大きな関心を持ち続けておられたのです。愛するゆえに…。


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