みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いつまでも あなたの御前に立たせてください

2018年12月31日 | 詩篇

詩篇 41篇

 当地の大晦日12月31日は、大半のお店がお昼過ぎで閉店。年が変わる頃には至る所で花火の音が炸裂します。こちらに来て間もない新年に、ある町を自動車で通りましたら、花火の残骸が山のようになっていました。ちょっと苦手な年越しです。

 「みことばの光」今年最後の聖書は詩篇41篇。読み返しながら、この一年大きな病に冒されることなく終えようとしていることを神に感謝しました。それとともに、病を得た方々を思い浮かべて祈りました。

 本日の「みことばの光」が書くように、詩篇第一巻は「幸いなことよ」で始まり、「幸いなことよ」で終わります。本篇ではどのような人が幸いだと歌われているのでしょう。「弱っている者に心を配る人」です。健康であり続けたいとはだれもが願うこと。けれども私たちにはそうでない時が訪れます。そんなとき、自分が健康であったら、どのようにして病む人、特になかなか快方に向かわない人と向き合うのだろうかと悩むことがあります。

 「心を配る」とはどのようなことでしょう。新共同訳聖書はここを「思いやりのある人」と訳しています。どちらも、自分にあるものを弱っている人に配る、届けるというような意味を持っています。

 近年度重なる自然災害の発生の中で、ボランティアによる援助の働きが大きな力を持つようになっています。援助の心とは相手に寄り添うことだとよく言われます。大きな震災の折に救援物資を募り集めて届ける折りに、何を届け何を送るのだろうかと自問したことを思い出します。神のあわれみを賜わった者の一人として、弱い人々にどのように接するのかはいつも問われることです。

 ダビデは病の中で、「私をあわれみ 立ち上がらせてください」と神に祈ります。なぜ彼は病からの癒しを祈り求めるのでしょう。「いつまでも あなたの御前に立たせてください」ということばが心に迫ります。

 この1年、ご愛読いただきありがとうございます。神の祝福が皆様にありますように。


沈黙の末の祈り

2018年12月29日 | 詩篇

詩篇 39篇

 この時期の森は木の葉が落ちて見通しが良くなっています。歩いている小道からいつもとは違った景色が見えてきます。太陽が出ていたらもっといいのに…。

 本篇では、人の前での沈黙を保ってきた詩人が、沈黙を破って「主よ」と祈っています。彼は、悪しき者が私の前にいる間は沈黙を守るのです。

 抑えに抑えた挙げ句、「主よ」と祈りが出てくるということに感動します。これまでの自分の歩みを振り返って、何度か抑えきれずに言わなくても言いことばを相手にぶつけてしまったことを思い出します。この詩人のようでありたいと心から願いました。彼は「主よ」と三回呼びかけています。自分の前にいる悪しき者を懲らしめてくださいと祈るのではありません。

 まず、自分の人生のはかなさを知ることができるようにと祈るのです。ここでは5節の「人はみなしっかり立ってはいても 実に空しいかぎりです」ということばが心に響きます。希望や力とはこのことに気づき、気づくだけでなく主に「お知らせください」と祈る先にあるのではないか、と考えます。

 次に、悪しき者と対峙する中で自分が神に背くことがないようにと祈ります。相手が悪い者なのですから、一言二言言い返してやりたいという気持ちを抑えるのは、自分も舌で罪を犯して悪しき者と「同じ穴の狢(むじな)」にならないようにと祈ります。「私の望み それはあなたです」ということばを、きょうのための一言として覚えます。

 そして、自分の祈りを聞いてほしいと願っています。13節の「私を見つめないでください」とは、私の罪に目を留めずに私を赦してほしいという意味でしょうか。束の間の人生で、ほがらかになれるのは、神から罪の赦しを賜わってこそなのです。

 人となって来てくださった主イエスさまに、「ありがとうございます」と申し上げます。


私が私を見捨てるとき

2018年12月28日 | 詩篇

詩篇 38篇

 昨日、当地に来て初めて映画館に行きました。そこは意外と近くにあるスクリーンが一つだけの映画館。椅子もゆったりしていて併設のレストランで注文した飲み物などを持ち込むこともできます。そして観たのは今年のカンヌ映画祭で賞を獲得した日本映画。日本語の映画をドイツ語字幕で観ることができて、得をした気分でした。見終わったあとは夕食をいただいて帰宅しました。

  この詩篇は、少々厄介な主題を取り上げています。自分が神の側にいて、つまり義なる者で、その自分を痛めつけようとする敵を懲らしめてくださいと祈っているのではなくて、ダビデ自身が罪のゆえに責めを覚えて神に「私を責めないでください」「懲らしめないでください」と願っています。

 彼は、自分は神に信頼しているのでだいじょうぶだなどという確信を持つことができません。愛する友や家族でさえも自分を遠巻きにし避けるような拠り所のない中にいるのに加えて、「私の力は私を見捨てた」と歌うほどにひどい有様なのです。


 そのような中で、彼は神を待ち望みます。自分が自分を頼りにできる何かがあるのではありません。まったく自分の側には頼りにすべきものがないのです。だからこそ彼は、神を待ち望むのです。神を待ち望むと言いながら、往々にして自分たちの側に可能性を残している場合も少なくないように思います。本当に自分には見込がないと追い詰められて、人は神を待ち望むことを学べるのかもしれません。


主によって、確かにされる

2018年12月27日 | 詩篇

詩篇 37篇23−40節

 霜が降りてしんしんと冷える中を歩きました。夕方暗くなってからですので、通りに沿ったの家々の灯がこぼれます。センスの良いクリスマス飾りが歩く人々の目を楽しませてくれます。クリスマス第三日(休みではありませんが…)のきょう、バッハのクリスマス・オラトリオはルカの福音書2章15−20節をテーマに歌います、

 詩篇37篇後半は、「主によって 人の歩みは確かにされる」ということばで始まります。以前の翻訳では「人の歩みは主によって確かにされる」でした(聖書新改訳第三版)。「主によって」が最初に置かれることを意識して変更したのだと考えます。

 ここにある命令は、「悪を離れて善を行え。いつまでも地に住め」(27節)、「主を待ち望め。主の道を守れ」(34節)、「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ」(37節)です。

 作者は、この地では悪を行う者が栄え、不正を行う者が良い思いをするのだから望みがない、だから、次の世界である天国に期待するというような考えを持ってはいません。「いつまでも地に住め」と命じ、「正しい人は地を受け継ぎ いつまでもそこに住む」と確信しています。

 目に見えることがひどくても、悲惨でも、そのような地にあって神がご自分の御心を実現なさろうとしているのを信じて、地にあって誠実に、主にあって敬虔に生きよとのメッセージがここから響いてきます。

 日本も寒波到来とのこと、お大事になさってください。


消え失せるから…

2018年12月26日 | 詩篇

詩篇 37篇1−22節

 当地は、きょうがクリスマス第二祝日。バッハによるクリスマスオラトリオでは、この日にはルカの福音書2章8−14節が歌われます。幼子が生まれた夜、ベツレヘム郊外で羊の群れを飼っていた羊飼いに神の使いが救い主誕生を知らせた箇所ですね。クリッペの写真もその部分です。

 詩篇37篇は他の詩篇とは趣を異にしています。前後の詩篇で確認していただけますが、この詩篇は神への祈りではなく、どちらかというと箴言のようなスタイルになっています。

 テーマは、「悪を行う者に腹を立てることなく、主に信頼して善を行え」です。詩人はなぜ悪を行う者が栄え、不正を行う者が良い思いをするのかという不条理に首をかしげるどころか、腹を立てています。このような主題を歌ったのは73篇です。73篇が神の前での詩人の神への祈りなのに比べ、37篇は腹を立てている者をいさめているという表現法を採っています。

 このような怒りは、科学技術の発展によって解決を見ることはなく、人間の歴史を通しての学習によって克服できたのでもありません。とても今日的(こんにちてき)なテーマです。

 この問題を乗り越える鍵は、神を恐れること、神に信頼することです。神がすべてをまったく正しくおさばきになることを信じて、この問題を神にゆだねて、自分は神に信頼して、この地で誠実に生きるのだということに尽きます。もちろんそれは、悪を行う者への懲らしめやさばきを行わないということではありません。

 腹を立てる者は、それで自分の大切な生活、人生を台無しにするのです。ですから、最終的な解決は「悪しき者を笑われる」主にゆだねて、誠実に生き抜くのです。

 「自分もまねして…」などとしてはならないのです。


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