みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ゆとりを与えてくださいました

2013年01月31日 | 詩篇
詩篇4篇


 イスラエル旅行には、教会から9名が参加しました。そのうちの一人は看護師さん。二日目の朝、血圧を測ってくださいました。びっくり。これまでの人生では経験しなかった高い値が出たからです。
 看護師さん曰く。「寝不足と興奮でしょうかね。」
 血圧の測定は苦手、腕を測定器に入れるだけでもドキドキしてしまいます。私のような人も多いので、血圧は二度測ったほうがよい、などとも言われているようですね。

 「みことばの光」が、この詩篇の作者であるダビデの姿勢に焦点を当てて解説していますので、私はダビデが主をどのようなお方かと見ているかに目を留めてみたいと思います。

・苦しみのときにゆとりを与えてくださった(1節)
 「ゆとりを与える」は、「広くする」が元の意味です。それで、新共同訳では「解放する」と訳します。アブシャロムから追われて、地理的にも心情的にも緊張し、眠ることができないでいる心を、主は広くしてくださるとうたっています。

・ご自分の聖徒を特別に扱われる(3節)
 元の意味は「区別する」です。新共同訳は「見分けて…」と訳します。詩篇では神と自分との一対一の関係が強調されていますが、主が自分のことを他の人と区別して特別に扱ってくださると確信できるのは、苦しみの中にある者の慰めであり、支えです。

・聞いてくださる(3節)
 祈りを聞いてくださるとうたっています。苦しみや悩みにある人は、だれも自分のことには関心を払ってくれないと思い込みやすいのです。けれども、ダビデは主は私の祈りを聞いてくださると信頼しています。

・私の心に喜びをくださった(7節)
 「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」と多くの者が言うことばと鮮やかに対比されています。ダビデは「良い目」を見てはいません。その反対のところにいます。けれども彼は「あなたは私の心に喜びをくださいました」と感謝しています。

・私を安らかに住まわせてくださる(8節)
 そして安眠です。主がどのような方かを思い巡らすことは、特に悩みの縁に立たされている者の安眠の秘訣だと思います。


    

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主がささえてくださるから

2013年01月30日 | 詩篇
詩篇3篇

 夜中に消防車のサイレンの音で目を覚ましました。後で市のホームページで確かめると、午前3時過ぎだったようです。以前、教会の隣家で火災が発生したことがあったので、気になってしばらく眠らずにいましたが、5時のアラームで目を覚ましたところをみると、いつの間にか眠ってしまったようです。そのせいか、何となく寝起きが悪いなぁと感じる今朝です。

 普段は布団に入ると1分もしないで寝入ってしまいます。けれども、「みことばの光」が書くように、「よく眠れないというのは、辛く悲しいこと」なのです。

 詩篇3篇は見出し(新共同訳では1節)にあるように、ダビデがアブシャロムの謀反にあって、はだしで命からがらのがれた時に読まれたものです。Ⅱサムエル15章30節にはその時のダビデの様子がこのように描かれています。
 「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。」
 こともあろうに、我が子からいのちを狙われているのです。取り乱し、慌てふためき、そして自責に念にも駆られる王の姿が浮かび上がってきます。

 そのような中でも、彼は主に叫び求めています。何日も眠れない日が続く中でも、「主がささえてくださるから」身を横たえて眠ると祈ります。きっと眠れなかったのです。しかし、眠れない中でも主のささえを信じて、彼はしばしまどみます。大嵐の中での平安を彼は主から賜っているのです。

 「主がささえてくださるから」を口ずさみ、一日を始めようと思います。


   

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わたしの王を立てた

2013年01月29日 | 詩篇
詩篇2篇

 
 通常国会がきのうから開かれ、安倍首相の所信表明演説が行われました。朝刊には、お決まりの野党の反応が紹介されています。「空にして疎…」などということばが並んでいます。民主主義の下では、野党は与党のチェック機関としての機能があるのですから、このような批判は当然だとも言えます。そんなことを思いつつ、1-3節を読みました。

 権力を持つ者は、それを他者に奪われないように務め、権力を求める者は、権力を自分のものにするため相手を引きずり下ろそうとする…こんなやりとりを、人の世は続けてきています。

 神はそのような国や人の間での権力の奪い合いを、笑っておられるというのです。怒っておられるというのです。
それは、まことの支配者である神を、そして神がお遣わしになる「わたしの王」に背中を向けて、互いの間で力を奪ったり奪われたりしていることへの笑いであり、怒りなのです。

 「みことばの光」には、時代のリーダーたちのように祈るようにと勧められています。「だから、この国の指導者たちはだめなんだ」と批評だけはするけれども、笑いはするけれども、祈ってはいないのではないか…と心探られます。

 この朝は、多くの人々がこの国の指導者たちのためにとりなしたことでしょう。

 


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主の教えを喜びとし

2013年01月28日 | 詩篇
詩篇1篇


 「みことばの光」では1サイクル5年の間に詩篇150篇を読み通します。2013年は、そのうちの1篇から41篇を読むことになります。

 携わっていた幼稚園では、毎日礼拝があり、少しずつ聖書を暗唱をしていました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一 5章16-17節)から始まり、少しずつみことばが増えていきます。詩篇1篇もその一つ。暗唱することばについては、意味を子どもたちに話すようにしていたのですが、どれだけ理解できたでしょうか。ともあれ、子どもたちといっしょに多くのみことばを毎日暗唱していました。

 「みことばの光」には、「詩篇が作られた三千年前頃に、本の形をした聖書はなかった。…当時の人たちは、主のおしえを暗記し、口に繰り返して唱える必要があったのである。それはたいへんなことであっただろう」とあります。そのとおりです。みことばを覚えるのは簡単なことではありません。けれども、それだけ恵も大きく喜びも大きいというのは、昔も今も変わりないことです。

 どこにいても、いつでも、みことばを開こうと思えば開くことのできる環境に置かれている私たちは、しあわせだと思います。暗唱してみませんか、詩篇1篇を。


    

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はい。ここにおります

2013年01月26日 | 創世記
創世記22章


 「みことばの光」読者のお一人から、表紙についてのご感想をいただきました。
 「ともしびを絶やさぬように油を準備し、みことばの前に出よ」との主のおことばのような表紙…」とのこと。携わった者の思いを超えて、このように受け止めて下さる方がいることに励まされました。ありがとうございます。

 「信仰の父」アブラハムの歩みの、総まとめとも言えるのが、ひとり子イサクをささげよと神がお命じになるという試練です。神は、アブラハムがイサクを愛しておられることを知っておられ、イサクがアブラハムにとってのひとり子であることを知っておられて、イサクをささげよとお命じになります。

 この箇所で心に留めたのは、「はい。ここにおります」とのことば(1節、11節)。「みことばの光」ではこのアブラハムの返事のことばを「打てば響く神との関係」を表わすものとしています。「はい。ここにおります」と同じことばが、イサクが呼んだときの父アブラハムの返事でも用いられているのです。「ここにいる。…」
 
 アブラハムは、神の語りかけに対しても、わが子の問いかけに対しても「ここにいます」と答えます。神とともに歩もうとしたアブラハムは、わが子イサクと共に歩もうとする父であったということがわかります。
 考えてみれば、父に縛られて祭壇の上に静かに身を横たえるイサクの従順は驚くばかりです。

 失敗を重ねはしても、常に神の前に「はい。ここにおります」とあり続けた父の姿からイサクもまた、多くを学んだ青年に成長していたということを想像します。



 

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