みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

日の上る所から沈む所まで

2012年03月31日 | 詩篇
詩篇113篇


 強風の朝です。でも、これまでは北風を感じてきましたが、きょうのは南風。南に向かっている人が必死になって自転車を漕いでいました。土曜日は「春の嵐」、そして日曜日は「冬の嵐」と天気予報にありました。

 年度の変わる今、「みことばの光」では詩篇113-120篇を読みます。途中、119篇を読むのをとても期待しているのです。
 きょうは113篇。
 「日の上る所から沈む所まで」ということばは、主なる神のご支配が世界中にあまねく及んでいることを示すものです。この詩篇が4節までで終わっていたとしても、「なるほど」「そのとおり!」と、ここでの招きに答えて神をほめたたえることでしょう。
 けれども、5節以下を読みますと、「日の上る所から沈む所まで」ということばがただ地理的な広がりだけでなくて、この世のすべての人々にまでという広がりを感じるのです。

 高くおられる神が、「身を低くして天と地をご覧になる。」 昔ならばなおさらのこと隅に追いやられがちであった弱い人や貧しい人を顧み、引き上げ、高い位に就かせられると歌われています。
 9節は、不妊の女性に子どもが与えられたという、聖書の出来事を思い起こさせてくれます。サラ、ハンナ、エリサベツ…。

 そして「身を低くして」ということばに、「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分をむにして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」イエス・キリストのお姿を重ねました。

 


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主の日が来る

2012年03月30日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書14章


 きょうは事業年度の実際の終わりの日(明日は土曜日ですから)。金融機関は閉店時間まで混雑していることでしょう。もうすぐ新しい環境にはいろうとする方も大勢いるのでは、と思います。
 通っている教会でも、この4月から大学生になる人、社会人になる人がいます。家を出て寮生活する人は、何が待っているのかハラハラドキドキしているだろうな、と思いながらお祈りしています。

 ゼカリヤ書も最終章。「見よ。主の日が来る」から始まります。
 「ああ、私たちはここを目指しているのだ」と、早朝の祈祷会で改めて確認し、感謝しました。
 「夕暮れ時に、光がある」とは、月に一度伺って奉仕している特別養護老人ホームでよく用いられていることばの一つなのですが、人生にも光が少しずつ落ちて行きやがて暗闇になるような印象を持つ方もいます。けれども、神の民はそうではない、というのです。

 トルコ体験が尾を引いていて、すみません。
 レンタカーでの気まま旅で困ったのは、目的地のホテルに着くのが大抵の場合暗くなってからということでした。カーナビはあるのですが、以前にも書きましたように、ナビの操作が今一つ分からなかったので、どういうことか私たちをいわゆる「抜け道」のような所に連れて行ってくれるのです。土地勘があれば、「ハハーン。ナビよ。きみはこっちに連れて行こうとしているけれども、だまされないよ。…」とナビを「裏切る」ようなこともできるのですが、何しろ初めての土地。
 ある晩。暗闇の中でほとほと困ってしまいました。明るいうちに着いていればよかった、光がほしい!と思ったのです。(親切な人々によって、無事に目的地に着けました。ほんとうにありがとうございました!)

 主に信頼する者の未来には光が待ち構えている、これが今を生きて行く大きな力になりますように。




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罪と汚れをきよめる一つの泉

2012年03月29日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書13章


 トルコ南部のアダナで、朝1時間ほど街歩きをしました。
 イスラムの国ですので、たくさんのイスラム寺院があります。そのひとつを訪ねた時のことです。一人のお年寄りが手招きをしています。「こっちへ来て、見てごらん」と言っているようでした。行ってみると半地下になった大きな部屋には、銭湯の洗い場のようにずらりと蛇口と腰かけが並んでいました。
 どうやら、そこは沐浴場のようでした。イスラム教徒は、祈りの前に頭と手足とを洗うのだそうですから、そのための場所だったのですね。 Dsc02271


 1節には、「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とあります。
 水にはいろいろな「効用」があります。その中の一つは身体を清潔にするということ、汚れを落とすということでしょう。シャワーを浴びたり、洗濯したりは私たちの日常のことです。
 そして、その他にきよい神の前に出るためには身の汚れを洗い落とすという手順を踏む宗教がほとんどです。
 滝で打たれるというのもその一つなのでしょうね。

 時々ぞっとする夢を見て、「ああ、夢でよかった」とホッとすることがありますが、ある時見た夢は、ゾゾッとするものでした。一生懸命手を洗うのですが、洗っても洗っても手がきれいにならずにかえって汚れが増していくのです。
 
 ここにある「罪と汚れをきよめる一つの泉」という預言は、イエス・キリストにおいて成就したのですね。何とありがたいことでしょうか。





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ひとり嘆く

2012年03月28日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書12章


 企業年金基金の受託をしながら、そのほとんどを失ってしまった投資会社社長への参考人質疑の様子がニュースで映されていました。今後の刑事訴追を考えてのことか、受け答えは慎重であり、自分がしたことは間違っていなかったということで一貫していました。公の場ではそうせざるを得ないのだとしても、ひとりの時には嘆き悲しんでいるのではないか、いや、そうあってほしいと願いました。

 嘆くよりは笑って過ごせたらよいと思います。しかし、神が真実であわれみ豊かなお方であることを知った者にとっては、このお方の前で嘆くのが、もっとも平安なことなのではないのでしょうか。

 子どもの頃に、「しゃくり上げる」という体験を何度かしました。大体は親の前でのことでしたが、ぎりぎり最後まで歯を食いしばって「負けないぞ」「謝らないぞ」「自分は悪くないぞ」と心を堅くしているのですが、相手の一言、また何かのきっかけで、何かが切れたようにしゃくり上げました。
 しかし、私にとってそのようなことが解放感につながって行きました。

 11-14節の「…ひとり嘆き、…ひとり嘆く」の繰り返しは、「神の前で」を前提にしているかのように読めます。そして、そのような嘆きは、希望に、救いにつながっているものだと教えられました。




 

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低く値積もりされた主

2012年03月27日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書11章


 火曜日は朝早くの祈祷会の日。久しぶりに出席すると、窓から朝日が差し込んできました。
 トルコに行く前には、まだ暗い中で祈祷会が始まっていたので、ずいぶん日が延びたことを実感しました。教会の庭の白木蓮も、ようやく白い花を見せ始めました(そういえば、昨年3月24日のブログでも、「この白い花」のことを取り上げたっけ)。寒さが続くので開花がいつもより数日遅いようですね。

 ちょっと難解なゼカリヤ書。しかし、その所々に新約聖書に馴染みのことばが出ています。
 きょうの発見は「銀三十」。
 後にマタイの福音書27章9節は次のように綴ります。
 「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。』」
 ユダがイエスを売り渡した出来事は、エレミヤやゼカリヤによる預言の成就だといっているのです。

 銀三十がどれほどの価値があるのかについて、ある説明では「奴隷一人の値であり、牧者の命がけの働きに対する報酬としてあまりにも安すぎる」とありました。
 神であられるお方が、なんと低く値積りされたのでしょうか。「銀三十」ということばは、私たちを救うためにそこまで低くなられた主のお姿を改めて思います。

 それとともに、自分が低く見られおとしめられることに心中穏やかでない、自分の愚かさをも思うことです。

 


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