みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれの前に

2017年01月13日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 6章11−21節

 数日前の雪も木曜日と金曜日の雨でほとんど解けてしまいました。生活をするには解けた方がよいのですが、景色としてはもう少し積もっていてほしかったと贅沢なことを考えています。

 テモテへの手紙の終わりに、パウロは何を書きたかったのでしょうか。大きな課題のある教会を任されて、できれば逃げ出したいと心のどこかに思っていたであろうテモテは、特に大きな声を持ちつつあった俗悪な教えを語る人々から教会を守らなければならず、豊かさと貧しさが同居している教会の交わりに心を砕かなければならなかったようです。

 そんなテモテにパウロは、それらの問題にどのように対処するのかを書いてきたのですが、何よりモテモテが何を求め、何をめあてにして一人の信仰者として歩むのかを伝えています。

 教会に限らず、仕事をする中でも、自分の立場や役割をどのようにうまくこなすか、やっていくのかということにいっしょうけんめいになっていると、いつの間にか自分がすり減るような気分になります。11節と12節は、キリストを信じる者が目指すものです。自分と神との結びつきをおろそかにしないようにと言われるのです。

 そして、人の評価ではなくてやがておいでになるお方がどのように見てくださるのかを心に留めるようにとも勧めます。14節の「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、キズのない、非難されるところのない者で…」という言葉は、目の前にあることをうまくやったとかしくじったとかして、高ぶったり落ち込んだりすることがないようにという、励ましにも響きます。

 

コメント

追い求めるもの

2017年01月12日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 6章1−10節

 大国の次の大統領になる人がつぶやく140文字が、企業や人々を揺さぶっています。どのような方向に国を、そして世界を持っていこうとしているのか、興味と不安を抱きつつ見ている…、というところなのでしょう。富を蓄積することがベストだと推し進めていくのでしょうか。

 この箇所を一括(くく)りにすると、豊かになるとはどのようなことか、そのためには何を追い求めるのか、となるでしょうか。福音は社会の制度を変えることを主眼とはしません。主イエスを王とするのだから王制を壊してしまおうとは動きません。教会にはイエスを主と信じる奴隷がいましたし、イエスを主と信じる奴隷の主人もいました。

 今あることで満ち足りる心を持つようにと勧めるのですから、読み方によっては貧富の格差や階級を容認しているかのようにも見えます。しかしパウロは、金銭を愛することがあらゆる悪の根だとも言い切っています。

 「敬虔を利得の手段」とするのではなくて、金銭を追い求めるのではなくて、神を恐れ敬う敬虔を求めよと、パウロは勧めるのです。モノにあふれるような生活をしながら、なおもモノを追い求めるという流れに巻き込まれて、あれがあったら幸せに、これがあったら満足だという思いが湧いてくるようなときがあることに気づきます。

 何を追い求めているのか、との問いかけが聞こえます。

コメント

必ず明らかに…

2017年01月11日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 5章17−25節

 ヨーロッパには寒波が襲い、ギリシヤやトルコにも雪が降ったと報じられています。当地にも雪が積もりました。こちらでは家の前の歩道は、その家で朝の9時までに除雪しておくという決まりごとがあるとのことです。駐車してある自動車のフロントガラスや屋根から雪を除きました。次の日に雪が凍ると取り除くのがとても困難になるから、と考えてのことです。

 このように、私たちは次の日のことを見通したり、来年のことを見通したりすることをします。しかし、そのとおりになるとは限りません。テモテは、自分にゆだねられていたエペソの教会にあるやっかいな問題に取り組まなければなりませんでした。それは、巧妙なかたちを取っていましたけれども、神に背く罪によるものでした。

 この部分の終わりに、誰の目にも明らかな罪もあれば、神のさばきのときに明らかになる罪があることを、パウロはテモテに伝えています。それは良きわざについても同じだとも言っています。それは、テモテをどんなに励ましただろうと想像します。

 いつか必ず、良きものは良い、悪しきものは悪いと神が明らかにする時が来るという確信を抱くことができることによって、自分に託されたつとめに生きることができるのではないだろうかと思うのです。

 さて、明日の天候は…? こちらは、かなりの確率で天気予報が当たります。

コメント

弱い人とともに

2017年01月10日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 5章1−16節

 先日、日本の老年学会が「高齢者の定義と区分に関する、日本老年学会・日本老年医学会 高齢者に関する定義検討ワーキンググループからの提言」というものを発表しました。

 それによると、現在は65歳からを高齢者と呼んでいるが、それには医学的、生物学的に明確な根拠がなく、特に前期高齢者(65−74歳)の人々の中には活動的な人が多くいるために、高齢者と呼ばれることには違和感を感じているのではないかということから、65歳以上を次のように区分することを提言しました。 ★65~74 歳 准高齢者 准高齢期 ★75~89 歳 高齢者 高齢期  ★90 歳~ 超高齢者 超高齢期 

 この提言によれば、私は「准高齢者」ということになります。大学の「准教授」のような響きです。90歳以上の「超高齢者」という呼び方もすごい! ですね。

 この箇所には、年を重ねた人々に教会がどのように対処するのかについて、パウロのテモテへのアドバイスが見られます。当時の教会は現代でいえば福祉を行っていたのです。ところが、まだ自分で何とかできるはずなのに、教会の助けを当てにするような人もいて、混乱を招いていたことが文言から伝わってきます。そこでパウロは、本当に必要とする人に助けが行き渡るような道を設けたのです。互いの愛がこどばだけのものにならないようにとのメッセージも伝わってきますが、同時に、愛という名の下で「何でもあり」ではならないということにも気づきます。

コメント

養われているから

2017年01月09日 | テモテへの手紙第一

テモテへの手紙第一 4章

 来月行くイスラエル旅行のハンドブックと資料の印刷を終えました。新しく入れ替えたプリンタの威力は抜群! 両面印刷の機能がありますので、予想以上の速さで作成できました。これまで使っていたプリンタは紙送りの機能が壊れて、「エイヤッ!」という勢いとタイミングで手差ししなければなりませんでした。資料作成のために、何度もイスラエルを旅した気分になりました。

 教会に忍び込む惑わす霊と悪しき教え、それが具体的には結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じることだというのに驚きます。なぜなら、それらはある種、神への信仰の表れのように受け取られることだからです。そのような教えを教会に持ち込む人の良心は麻痺しているのだとパウロは書いています。良心が麻痺するというのは、必ずしも悪事を行うということにだけ関係があるのではありません。周囲から宗教的だとか、敬虔で真面目な人だとか思われるような振る舞いをしているからです。

 良心が麻痺するというのは、自分で物事を判断しない、できないということです。良いことであったとしても、自分で「それに何の意味があるのか」「そのようにするのはなぜか」という問いかけがなされないことです。この箇所で、良心が麻痺するということの対極にあるのはどのようなことなのかを探しました。

 「信仰のことばと、…良い教えのことばによって養われている」ということなのではないでしょうか。神のことばによって養われていることが、良心が麻痺することから自分を守るのです。

コメント

2011-2019© Hiroshi Yabuki