みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

真理を知る人々へ

2018年03月01日 | ヨハネの手紙第二

ヨハネの手紙第二

 3月を迎えましたが、訪れている地は真冬。昨日は横殴りの雪が降りました。一日のうちに雪、あられ、晴れ…と…行がめまぐるしく変わります。そのような中でのシチューやお茶は体が温まります。

 ヨハネが宛てた二通目の手紙を読みます。

 この手紙の始まりでも、送り先の名前が書かれていません。「長老」と書いてあるのは、そう書けば「ああ、使徒ヨハネだ」と読者がわかっていたからだと想像できます。受取り手を「選ばれた夫人とその子どもたちへ」とするのも、ほかには見られないユニークな点です。これについての解説には、多くはこの手紙を読んでいる地域教会とそのメンバーを指しての呼び方だろうと解いています。

 ヨハネはまず、自分と手紙の読者との間に共通していることがあると書きます。真理を知っているということです。この場合「真理」と訳されていることばには定冠詞がありますから、一般的な真理を指しているのではなくて、ある特定の真理のことを言っています。それは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」とおっしゃったイエス・キリストのことです。

 第一の手紙を読み進める中で何度も書いたことですが、当時、教会は偽りの教えに振り回されていました。単純に言うと、聖い神が汚(けが)れた人間になるはずがないから、神であるキリストはこの世界に人となって来るはずがなかったという教えです。

 しかしヨハネはこの短い手紙でも、聖い神は罪に汚れた私たちを愛し、御子を人として遣わし、信じる者の罪をきよめてくださったのだから、神の愛に応えて神を愛し兄弟を愛するようにと勧めています。イエスを信じる者たちが互いに愛し合うことが偽りの教えから守ることになると言っているようです。

 一方で、この教えを持っていない者を家に受け入れないようにとも命じます。それは、彼らは真理(人となっておいでになったイエス)を伝えず、教会の交わりから愛を奪い去ってしまうからです。愛は「何でもあり」ということではありません。

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歩んでいるか

2013年02月21日 | ヨハネの手紙第二
ヨハネの手紙第二


 ヨハネの手紙第二の書き出しは、「長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ」と、何やら謎めいています。「選ばれた夫人とその子どもたち」が実在の人物を指しているのか、それとも「みことばの光」が書くように、教会を指しているのかと判断がつきかねます。ある「家の教会」に宛てて書かれたとすると説明がつくように思うのですが、これは著者に直接聞いてみたいものです。

 1節の「私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです」ということばは、手紙の書かれた目的が何であるかを示しているように思います。ヨハネは、人としておいでになったイエス・キリストを信じるという真理のうちを歩む人は、互いに愛し合うという命令を守っていると、書き進めています。

 どんなに美辞麗句を並べても、「イエス・キリストが人としてこられたことを告白しない」のであれば、それは真理ではないので、そのような教えから愛し合うという実践が出てくるはずがないと、ヨハネは書きます。

 このことは、自分の心がけや行動がどうなのかとも迫ります。つまり、イエス・キリストを信じて真理を土台として歩もうとしている自分に、互いに愛し合うという姿勢が伴っているのか、と問われます。
 あれもしているこれもできるということ以上に、愛しているか、愛のうちを歩んでいるということに意味があるのだということを知らされる書です。





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