みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

御翼の陰に

2018年08月31日 | 詩篇

詩篇 36篇

 8月はきょうが最後の日。日本では豪雨と暑さの8月だったことでしょう。当地も、例年にない小雨と暑さで公園の緑がとても少なくなってしまいました。私にとってこの8月は、よく歩いた一か月でした。歩数計では31万歩を越えていますので、1日平均一万歩を初めて達成した月になります。当地に来てしばらくして膝を痛めて少々不自由しましたので、夢のようです。

 本篇は衝撃的なことばから始まります。「私の心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く。」 以前の翻訳では「罪は悪者の心の中に語りかける」でしたので、ずいぶんと印象が変わりました。ダビデの心の奥に、神に背く者のことばが入り込んでくるのです。それは、神の前に歩もうとするダビデを強く揺さぶっているのです。とても心穏やかにいることはできません。

 そのような中で、ダビデは山を見上げ谷底をのぞいて、神の恵みと真実の豊かさと神のさばきの確かさとを確信して、平安を保とうとしています。私たちの心の奥にも神に背く者の声が届いてきます。そのような中で、何を、また誰を拠り所とするかが問われるのです。真実なお方に拠り頼むことのできる幸いを、この詩篇から知ることができます。

 昨日、通り雨に遭いました。幸い傘を持っていたので濡れずにすみましたが、葉の生い茂る大きな木の下は濡れていませんでした。「寄らば大樹の陰」ということばを覚えました。信仰者にとって神への信頼は「御翼の陰に身を避ける」ということばに現わされています。ありがたいことです。


戦ってください

2018年08月30日 | 詩篇

詩篇 35篇

 本篇に登場するのは、主に助けを求めているダビデ、そしてダビデのいのちを狙っている者たち、そして終わりのほうに、ダビデの義を喜びとする者たち。

 その中で、自分の敵をダビデはさまざまなことばで表現しています。

 私と争う者、私と戦う者、私に追い迫る者たち、私に対してわざわいを謀る者たち、悪意ある証人ども、私の知らない攻撃者、嘲りののしる者たち、偽り者、ゆえもなく私を憎む人々、私のわざわいを楽しむ者たち、私に向かって高ぶる者。…これらは、ダビデがどれほど大きな危機にさらされていたのかをなまなましく伝えています。

 特に11節から16節では、ダビデがかつて善を施していた人々が激しくダビデを攻撃し、中傷する様子が描かれています。病の時にはわがことのように悩み苦しみ、一緒に泣きました。そのような相手が、自分がつまずいたときには「ほら見たことか」とばかり牙をむいてくるのですから、こんなにつらいことはありません。良くしてもらったことはすっかりどこかに行ってしまい、人の失敗につけ込んで激しく攻撃してくるなどということもあります。

 けれどもダビデがここで一貫して主に願っているのは、「争ってください」「戦ってください」ということです。神に祈ることのできる幸いをおぼえます。

 悪がまかり通っているように見える中で、私は何を神に祈るのだろうか…。「あなたの義にしたがって 私のためにさばきを行なってください」と祈る者でありたいのです。


あらゆるときに

2018年08月29日 | 詩篇

詩篇 34篇

 本篇の表題には「ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい…」とあります。ここからは、ダビデがサウルに追われて、ついには敵地であるガテの王アキシュのところに逃れたという出来事を思います。詳しくはサムエル記第一21章10—15節をお読みください(本篇ではアビメレク、サムエル記ではアキシュとなっていますが、このことについては、アビメレクが個人名ではなくて王の称号ではないかとの説明があります)。

 表題を読むと余計に、「私はあらゆるときに、主をほめたたえる」ということばが心にかかります。自分を偽ってまでいのちを守ろうとするダビデの姿を見るならば、「ここまでするのか」という思いを抱きます。しかしそれは、彼が自分のいのちが惜しくてそのようにしたということではなくて、神の約束を信じていることゆえの行動なのではないでしょうか。

 「そこまでして」と惨めな思いになるようなときでも、彼は主をほめたたえています。

 声を出して読んで気づいたのは、「すべての」ということばです。「すべての恐怖から」、「すべての苦難から」、「正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救い出してくださる」との確信に、ダビデは立っています。ここに、ダビデが神に全幅の信頼を置いていることが明らかにされています。

 自分にとっての「すべて」とは何だろうか、ここは信頼できるけれども、そこは自分のものだという領域が自分の中にはないだろうかと探られるとともに、全部預けていいのだ、という大きな励ましもいただけます。なんとありがたいことでしょう!


何も言わなかった…

2018年08月28日 | マルコの福音書

マルコの福音書 16章

 月曜日、徒歩で市街地まで出かけました。この夏は小雨で気温が高かったために、あちこちの芝生からは緑色が失われていました。でも、陽気は夏の終わりを感じさせてくれます。日本はまだ残暑が厳しいと報じられています。お大事になさってください。

 私たちはイエス・キリストは十字架で死んだ後に復活したと聞いて信じていますので、マルコの福音書16章を読むときも、ここはイエスの復活が書かれてあるのだと、読み通します。けれども、もしも私がゴルゴタでの十字架の出来事の後、安息日が終わった日曜日の早朝にイエスのからだが納められた墓に向かっていた女たちだったとしたら、その後に体験する一つ一つのことをどのように受け止めたのだろうかと想像を巡らしてみたら、どうでしょうか。

 女たちや弟子たちがイエスの復活をどのように受け止めたのかについて、動詞を拾ってみましょう。「非常に驚いた」(5節)、「逃げ去った」(8節)、「震え上がり、気も動転していた」(8節)、「恐ろしかった」(8節)。

 この福音書は「恐ろしかった」ということばで終わっています。しかし、それではいかにも…ということで、ほかの福音書(おもにルカの福音書からでしょうか)の復活についての記事を元に、「その後」を書き加えています。8節そのものにも、女たちが「何も言わなかった」では終わりようがないということからか、「短い補遺」というものが加えられています。それによりますと、「彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた…」のです。

 あまりの出来事に驚き、恐れ、何も言わなかった女たち。マルコはそこから先は、読む者たちがすでに知っていることだとして、イエスの復活とはこれほどまでのこと、それを見聞きした者たちが驚き、恐れ、気が動転して何も言えないほどのことなのだと伝えたかったのではないのだろうか、と想像するのです。

 自分にはイエスが復活されたということについてこれほどまでの驚きがあるか、恐れや動転があるのかと問われます。それがあって初めて、福音は力をもって届けられていくのだと考えるのですが…。


わが神、わが神

2018年08月27日 | マルコの福音書

マルコの福音書 15章33−47節

 当地に来て少し経ってから、音楽をしている方とハイドンとシュッツの「十字架上の七つのことば」について、一緒に学ぶ時間を取ったことがあります。その方が音楽について私に教えてくださり、私がイエスが十字架上で口にした七つのことばの意味をお教えするという趣旨でした。

 マルコの福音書は、イエスの十字架上の七つのことばのうち、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という不思議なことばを記しています。これは当時、イエスと弟子たちとが話をするときに用いたアラム語のことばです。聖書には「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味であると付記されています。

 神のひとり子であられるイエスが、ここでは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈っておられるのです。三位一体の父がご自分の子を見捨てるはずなどあるはずがないのに…。つまりイエスは、神であられるお方なのに、私たちと同じになられたということをこの祈りは明らかにしています。

 神のひとり子が神に捨てられるというありえない、有難いことを味わっておられるのです。決して死を味わうことなどないお方が死に渡されようとしている絶望の中におられるのです。それは、神との結びつきを自分の罪ゆえに断ってしまった人と同じようになられたということです。

 それでもイエスは、「わが神、わが神」と祈ります。神はわたしをお見捨てになったのですかと絶望の中にいながらも、それでも祈るのです。何があっても祈ることをやめない、祈ることをあきらめて誰かに相談しようとするのではない、神に見捨てられたと思うようなときでさえも、神に祈れと促す祈りなのです。

 イエスのこの祈りは詩篇22篇の初めのことばです。詩篇22篇は神が自分を顧みてくださらないことを一つ一つ訴えています。しかし、その詩篇の結末は賛美に、希望にあふれています。決して祈るのをやめてはならない、神に捨てられたと思っているときでさえ、祈るのをやめるなというイエスからの語りかけが聞こえてきます、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という十字架上のことばによって…。


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