みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

二人の代表

2016年09月30日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 5章12−21節

 きのうはさわやかな秋晴れの一日。風が少し強かったので、公園歩きで胡桃の木の根元に注意しましたが、同じように考えている人が私のほかにもいたようです。残念なことに収穫はなし! でも、気持ちの良い汗をかいたので良しとしましょう。

 パウロがここで取り上げているアダムとイエス・キリストは他のだれよりも大きな影響をこの世界に与えてきました。人類の二人の代表だと言えます。

 ここには、「ひとりの人によって…、ひとりの人によって」ということばが繰り返されます。一方がもたらしたものは罪と死、もう一方がもたらしたものは恵みと神の義、いのちです。まったく正反対のものがこのふたりによってもたらされたことになります。

 心に留めたというよりも、初めて接するかのように読んだのは16節の「さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められますが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められる…」ということばです。特に「多くの違反が義と認められる」というのは、よく考えてみますと、「そんなことってあるの? 」と思わせるようなことばです。このことばからさらにパウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と話を進めます。

 神の恵みの満ちあふれる様(さま)です。


大いに喜んでいる

2016年09月29日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 5章1−11節

 茜色に染まる夕景を見て、空の広さを思いました。飛行機雲が縦横に線を引いていきます。なかなか明るくならない朝に、ちょっぴり秋の寂しさも覚えるこの頃です。

 ここには、「喜んでいます」ということばが三回登場します。しかも、そのうちの二回は「大いに喜んでいます」と書いてあります。これと同じことばは、2章17節、23節、3章27節、4章2節では「誇る」と訳されています。ですから、新共同訳聖書は5章2、3、11節とも「誇りとしています」と訳しています。

 自分自身を誇って高慢になるのではありませんが、このような自分がイエスさまを信じて義とされ、神さまとの間に平和を得ているのだから、そして、神の栄光にあずかるのを喜び誇りとする、晴れがましい思いなのだというのが伝わってきます。

 さらに、この喜びのゆえに、今自分がくぐらされている患難さえも喜んでいるのだというのです。患難をくぐるのが嬉しいという人はほとんどいません。できれば患難などに遭遇したくない、「神さま。どうか患難に遭わないように守ってください」と祈るのではないでしょうか。

 ところが、神との間に平和を得ていることのゆえに、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られて品性が決して失望に終わることのない希望を生み出すのだというのです。神との平和ゆえに、いつどのような場合にも神は心に注ぎ続けてくださるので、嫌なはずの患難の先にしぼんでしまうことのない希望が置かれている、という景色を思い浮かべます。


望みえないときに

2016年09月28日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 4章13−25節

 パウロは、信仰によって義とされることについて、アブラハムの例を引き続き挙げています。アブラハムは、「あなたを大いなる国民と」する、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という神からの約束を信じて、75歳の時にカナンを目指しました。

 その後の25年間は、祝福の約束が自分の力や可能性にはまったく基づくことなく、ただ神がなさることによってのみ実現するのだということを知らされる期間だと言ってもよいと思います。

 この間、アブラハムは神を信じ続けました。一方で神の約束の実現のために何をしたら…と試みました。しかし神は、年を重ねたアブラハムと不妊の妻のサラの間に子どもが生まれるのだとお告げになります。自分たちの手の内にある可能性を手放し、神の約束のことばのみを頼りにしたアブラハムは、「それが彼の義とみなされた」のです。

 「望みえないときに望みを抱いて」という18節のことばを思い巡らしてみました。ちょっとでも可能性があると信じるけれども、望みのないような局面では信じるのを投げ出してはしまわないだろうかと考えているのではないだろうか、と。

 あれこれ自分の手の内にあるものをいじっている間は、実は「信じる」というのが、神も自分もというというところにあるのではないだろうか、と心探られます。

 


別の道で

2016年09月27日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 4章1−12節

 郵便局からスーパーまでの途中、胡桃(くるみ)を拾っている人を発見。かなり葉が散らかっていましたので、道具を使っていたようです。それで刺激され、公園で胡桃の木を見つけては探しました。収穫は1個。大切に持ち帰りました。広い公園内の初めての道を歩いた(制覇した☜大げさ)喜びも味わいました。

 パウロのアブラハムやダビデについての考えを読んだユダヤ人の中には、カチンときた人がいたのかもしれないと想像しました。イスラエルの民にとってアブラハムとは自分たちの父祖という特別な存在でした。けれどもパウロは、アブラハムが割礼を受ける前に、信仰によって義とみなされたと説きます。それは、アブラハムは割礼を受けないままで信じて義と認められたすべての人の父となり、割礼のある者の父となるためだなどと言うのです。

 ダビデは姦淫、むさぼり、偽証、殺人というひどい罪を犯しました。しかし、神は罪を悔い改めたダビデをお赦しになったのです。パウロはダビデもまた、信仰によって義とされたひとりなのだと取り上げているのです。

 ここからは、「行いとは別の道で」ということばを心に留めました。イスラエルの人々に限らず、人は自分が何をなしたか、何ができたかに自分の価値を見出そうとしています。しかし、それは自分や周りを納得されることはできても、神の義を得ることはできないのです。「別の道」が示されたのです。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)とのイエス・キリストのことばを思います。


しかし、今は

2016年09月26日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 3章21−31節

 土日とデュッセルドルフに行きました。そして、日本語キリスト教会の皆さんと、みことばに聴くゆたかな時間を過ごしてきました。「みことばの光」をご利用くださる方々、そしてこのブログを訪ねてくださる方々ともお目にかかれて、とても嬉しい二日間でした。

 行き帰りに利用したのは、前回はライン川沿いをゆったりと走る列車でしたが、今回は新幹線区間を走る特急を利用しました。確かに所要時間はおよそ半分。でも、昼に走るのでしたら、川沿いの路線を利用したいところです。

 「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」と、絶望的なことをはっきりと告げたパウロは、「しかし、今は、律法とは別に…神の義が示された」と続けます。それが、イエス・キリストを信じる信仰による神の義、つまり、イエスを信じる者を神が義と認めてくださるという道が開かれたというのです。

 神には人間の罪を見過ごしにすることはおできになりません。それなのに、どうして罪を犯した人間を義とすることができるのでしょうか。ただ神の恵みによるほかはありません。そこには、人間の努力が入り込む余地は全くありません。それが「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められる」ということでした。罪ある人が救われる唯一の道がイエス・キリストを信じる信仰なのです。ここでは、「信じる」「信仰」ということばが10回(新改訳聖書によれば)用いられています。

 「しかし、今は」という21節のことばが心に留まりました。この「しかし」は絶望を希望に、死をいのちに変える力をもった力強い接続詞です。

 


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