エゼキエル書 36章22−38節
きのうから、お借りしている教会の事務棟のような建物で礼拝しています。会堂は冬の間暖房を止めるというのが理由です。エネルギー危機の余波の一つですが、その先には戦争があります。
エゼキエル書のような旧約聖書を積極的に読む方はもしかしたら多くはないのかもしれません。しかし、難解だと避けられがちのエゼキエル書の中に、どこかで読んだことが、聞いたことがあることばを見つけるとホッとします。きょうの箇所では、26節の「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」がその一つかもしれません。
その前で神は、イスラエルの民を捕囚の地から帰還させる理由を述べておられます。それは驚くようなこと。22節に「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである」と言っておられます。
ご自分が選んだ民が罪ゆえに滅びるのは、捕囚の地で死に絶えるのは、神の聖なる名が汚されること。神はそうならないように、ご自分の聖なる名のために、逆らい続けるイスラエルを再び約束の地へと戻らせると言われるのです。
人は、自分の努力、知恵では罪の泥沼から抜け出すことはできません。つまり、自分で自分を救うことはできないのです。それが26節の意味。神が新しい心を賜って初めて、つまり肉の心を賜るので、正しく歩もうとする思いを持つことができ、そのように歩くことができるのです。
努力を説く教えはこの世にあふれるほどあります。しかし、人間の救いは努力の結果ではありません。きょうは宗教改革記念日。「信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ」です。