みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

新しい心、新しい霊を

2022年10月31日 | エゼキエル書

エゼキエル書 36章22−38節

 きのうから、お借りしている教会の事務棟のような建物で礼拝しています。会堂は冬の間暖房を止めるというのが理由です。エネルギー危機の余波の一つですが、その先には戦争があります。

 エゼキエル書のような旧約聖書を積極的に読む方はもしかしたら多くはないのかもしれません。しかし、難解だと避けられがちのエゼキエル書の中に、どこかで読んだことが、聞いたことがあることばを見つけるとホッとします。きょうの箇所では、26節の「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」がその一つかもしれません。

 その前で神は、イスラエルの民を捕囚の地から帰還させる理由を述べておられます。それは驚くようなこと。22節に「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである」と言っておられます。

 ご自分が選んだ民が罪ゆえに滅びるのは、捕囚の地で死に絶えるのは、神の聖なる名が汚されること。神はそうならないように、ご自分の聖なる名のために、逆らい続けるイスラエルを再び約束の地へと戻らせると言われるのです。

 人は、自分の努力、知恵では罪の泥沼から抜け出すことはできません。つまり、自分で自分を救うことはできないのです。それが26節の意味。神が新しい心を賜って初めて、つまり肉の心を賜るので、正しく歩もうとする思いを持つことができ、そのように歩くことができるのです。

 努力を説く教えはこの世にあふれるほどあります。しかし、人間の救いは努力の結果ではありません。きょうは宗教改革記念日。「信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ」です。


そこには主がいた

2022年10月29日 | エゼキエル書

エゼキエル書 35章

 公園の中で長い間通行止めだった道が開通! とても歩きやすくなりました。雨で泥濘(ぬかる)むことがないのはありがたいです。

 セイルの山とは、エサウの子孫の地エドムのことです。死海の南側に広がる地を治めていました。エゼキエル書ではすでに25章12−14節に神がエドムをさばかれるとありましたが、35章で再びエドムへのさばきのメッセージが届けられます。

 イスラエルの回復についての預言が記されている中でなぜ、エドムへのメッセージがあるのでしょうか。それは、エドムが回復の大きな妨げになるからです。

 エドムはエサウの子孫。エサウは双子の弟ヤコブによって長子の権利を奪われました。二人は和解しますが、積年の恨みを忘れずに持ち続けることがエドムの存在の力になっていたのかもしれません。神は、「おまえはいつまでも敵意を抱き…」とエドムに語っています。

 10節の「そこには主がいたのである」とのことばに目が留まります。エドムはバビロンによって滅ぼされた北のイスラエルをこの時だ! と占領しようと企てました。しかし、失敗します。

 彼らが攻め込もうとする地には主がおられたからです。エドムの目に見えたのは、破れて惨めな姿をさらすイスラエルの人々の姿でした。しかし、そこには主がおられました。これでは勝てるはずがありません。

 「そこには主がおられる」という事実を排除して、物事は正しく動かないのです。今でも…。


一人の牧者を

2022年10月28日 | エゼキエル書

エゼキエル書 34章

 ここは、旧約聖書を読む中でのオアシスのような箇所だと思っています。

 羊飼いの詩篇(詩篇二十三篇)、迷子の羊を探す羊飼いのたとえ(ルカ十五章)、良い牧者イエス(ヨハネ十章)、やぎと羊のたとえ(マタイ二十五章)などを思う人もいるかもしれません。

 まず主は、イスラエルの指導者を牧者にたとえておられます。彼らは羊である民を養わずに自分たちを肥やし、結果的に羊たちを散らしたと指摘しておられます。バビロン捕囚を指すのでしょう。「わたしの牧者」ということばがちりばめられています。指導者たちは、主から預かった「わたしの羊」を、自分のものであるかのように踏みにじったのです。

 次に主は、羊と羊、雄羊と雄やぎを正しくさばくと言っておられます。つまり、主ご自身が羊飼いなのです。「わたしの羊」がそうでないものによって脅かされることがないようにすると約束しておられるのです。

 さらに主は、ご自分の民に「一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす」と約束しておられます。その牧者のもと、「わたしの羊」は真の安全と繁栄を得ることが約束されています。この「一人の牧者」こそイエス・キリストです。エゼキエル書の中に、主のお姿を見るのです。喜びが湧いてきます。


恋の歌のよう?

2022年10月27日 | エゼキエル書

エゼキエル書 33章17−33節

 夕方近くの川沿いを歩きました。紅葉が夕日に映えています。いくつかを写真に収めましたが、目で見るのと撮影したものとを比べると、格段に目で見たもののほうが美しいのです。プロの方はそうではないのでしょうが…。

 33章の後半に、いくつかの目に留まることばがあります。

 一つは17節の「主の道は公正でない」という民のことば。正しい者でも背いたならば救われることなく、悪しき者でも悪から立ち返るならば生きると、主が語ったことについて非難しているのかもしれません。13節に「自分の正しさに拠り頼み」とあります。主の正しさに拠り頼むことでなければ、人は「公正ではない」と神に文句を言います。

 次は、主がここでのことばをエゼキエルに授けたのは、エルサレムが占領された前の日だったということについてです。これを機に、エゼキエルは「もはや黙っていなかった」と言うのです。それは、神がエゼキエルに託したとおりのことが実際に起こったということとつながりのある行動の動機です。

 そして、民がエゼキエルのことばを「音楽に合わせて美しく歌う恋の歌のよう」に聞いているということです。どんなにエゼキエルが神のことばを語っても、それを自分の生き方を大きく変えるものとはしないで、趣味のようにして聞いて喜ぶのです。もしかしたら、そんな聞き方をすることもあるのではないかと、心探られます。


わたしは生きている

2022年10月26日 | エゼキエル書

エゼキエル書 33章1−16節

 久しぶりに近くの公園を歩きました。秋休み中だからか、何となく人が少ない気がしました。スーパーにはクリスマスのお菓子が勢ぞろい。あと一か月もするとクリスマス市、そんな頃です。

 エゼキエル書は、33章から大きな転換をします。これまではエルサレム(イスラエル)へのさばきの宣告、そして周辺の国々へのさばきの宣告が続いていたのですが、ここからは希望のことばが並びます。

 これまでエゼキエル書を読み続けてきて、厳しいことばに心がしぼんでしまうような思いを持つ人もいたことでしょう。改めて考えますと、真の希望は罪の悔い改めから始まるのです。

 この箇所で目につくのは「生きる」ということば。エゼキエルは神から民へのことばを託されます。11節に「わたしは生きている」とあります。絶望して死のうとしている人々に、「わたしは生きている」と神が言っておられるのは、彼らにも生きるようにという促しのように響きます。

 そのあとで、だれが生き誰が死ぬのかが明らかにされます。12−16節には、どんなに正しい者であっても、神に背くならば救われることはなく、どんなに悪い者でも、神に立ち返るならば生きるという約束が続いています。これは、イエス・キリストによって届けられた福音のメッセージに通じます。

 「わたしは生きている」と神は、生への希望を失いかけている一人ひとりに語りかけているのです。このことばを大切にいただき、また届ける者であるように…。


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