詩篇 120篇
シュトゥットガルトでの聖書の会、もちろんメッセージが主(おも)ですが、そのあとのおやつの時間が楽しみです。皆さんが持ち寄った和洋菓子のおいしいこと。餅子で作った抹茶お餅(?)は、ういろうを思わせる食感でした。羊羹や落雁などは、当地では格別のご馳走となります。お煎餅もあられも…。食べ物の話で盛り上がりそうなのでこの辺で…。
帰り道は、週末で月曜日も休みのためなのか道路が混んでいて、自動車道を降りてネッカー川という川沿いをハイデルベルグまでドライブしました。夕日にきらきらと輝く水面、アップダウンの田舎道沿いには、菜の花の黄色の絨毯。夕焼けも彩りを添えて助手席の妻が「きれい!」を連発していました。カーブの多い道でしたので、残念ながら私は景色を堪能できませんでした。
詩篇120−134篇には「都上りの歌」(「都に上る歌」)という題がつけられています。エルサレム巡礼の歌だと一般には言われていますが、エルサレムに再建された第二神殿には、男子の庭と婦人の庭の間には15段の石段があって、その15段の階段を上る折に、この部分の詩篇を一つずつ歌ったと言われてもいます。
ところが「都上りの歌」の最初のことばは「苦しみ」なのです。巡礼は喜びと期待をもってエルサレムを目指すように考えるのですが、人が神の宮に詣でる動機の一つには、苦しみがあるのだということに改めて気づかされる出だしのことばです。
彼は何に苦しんだのでしょう。一つは彼がメシェクに寄留し、ケダルの天幕に暮らす苦しみです。メシェクとは黒海の近辺に住むヤペテの子孫、ケダルはイシュマエルの子孫でアラビヤ人に属する民だったと考えられています。神をあがめるこの作者はそんなにも遠く、エルサレムから見たら辺境にあったのです。そしてもう一つの苦しみは、自分の近くにいる者が、つまり隣人が敵だということゆえの苦しみです。
苦しみを好む人はいません。しかし、苦しみが巡礼の動機となるのだとしたら、苦しみに会うことには意義がある、ということになります。