みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神が下さるもの

2023年02月28日 | 詩篇

詩篇 4篇

 1年で最も短い2月も今日が最後。けれども、教会でも個人でもいろいろなことがありました。どのような一か月を過ごされましたか。

 追いつめられた時には、だれもが辛いと思います。けれども、どうすることもできない状態にあって、ダビデは神に祈ります。自分を追いつめる出来事、人は相変わらずなのですが、神に願い求める者を神は解き放ってくださると、彼は信じています。

 6−7節には、この世が提供するものと神が下さるものとが対比されていると読むことができます。多くの人は言います。「だれがわれわれに 良い目を見させてくれるのか」と。しかしダビデは、「あなたは喜びを私の心に下さいます」と言うのです。

 ところで、この部分を聖書協会共同訳聖書は「誰が私たちに恵みを示してくれるのか。主よ、御顔の光を 私たちの上に昇らせてください」と一人のセリフとして訳しているので、肯定的な意味が伝わってきます。翻訳によって受け取り方が全く異なる一例です。

 8節も心に留まります。私たちの安眠はすぐに妨げられます。人とのトラブル、仕事上の課題、経済、健康、数えたらキリがありません。しかし、そのような中にいる者に、神は安らかな眠りを与えてくださるのです。苦しんでいる人にとっては何よりの贈り物ではないでしょうか。

 今晩、私も、そしてあなたも、神からの安眠をいただけますように。


神のみこころ

2023年02月27日 | 創世記

創世記 25章19−34節

 肌を刺すような空気の冷たい日曜日でした。

 ここにはイサクとリベカとの間に双子が生まれたこと、二人が成長したある時の出来事が書いてあります。40歳で結婚したイサクリベカ夫妻が子を生んだのは60歳の時。結婚してすぐに子どもが生まれたのではないことが明記されています。

 「イサクは、自分の妻のために主に祈った」という21節のことばが目に留まります。その祈りが答えられたのはずっと後のことでした。双子を宿したリベカは、胎内で胎児がぶつかり合うので主にみこころを求めます。リベカにとって放ってはおけないほど深刻なことだったのでしょう。

 何事かが起こったときに主のみこころを求めるリベカの姿勢に学びます。その結果、彼女は胎内の二人に神がどのようなみこころを持っているのかを知るのです。

 28節に「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた」とあります。イサクがエサウを愛する理由は単純です。自分が好むものを獲って来るエサウを好むのです。しかし、リベカがヤコブを愛するのは、胎内にいる時に聞いた神のことばに基づいていたのかもしれません。イサクがエサウを愛するのを見て、リベカはヤコブヘの愛を深めたとも考えられます。 

 後半には、エサウが食べ物ほしさに長子の権利をヤコブに譲ったとあります。何でもでき、何でも手に入れることのできるエサウにとって、そのようなものは必要がなかったのかもしれません。一方でヤコブは自分にはないものを知恵を用いてエサウから得るのです。それぞれの思いや行動には課題があるのですが、神はそのようなことを用いても、ご自分の計画を進めるのです。


はい、行きます

2023年02月25日 | 創世記

創世記 24章50−67節

 月に一度の聖書の会、お昼も一緒にいただきます。皆さんが持ち寄るものは多くが日本食。きのうはおはぎも…。美味しくいただきました。

 まだ会ってもいないイサクの妻となるために家を旅立つリベカ。アブラハムのしもべがリベカをイサクの妻として神が備えておられたと確信していたように、リベカにも確信と覚悟をおぼえる箇所です。

 十日間ほどとどまらせたいと言う兄や母の気持ちもよく分かります。もしかしたらリベカは二度と家族と会うことはできないのです。けれどもアブラハムのしもべは、一刻も早くリベカを連れて帰りたいと言います。家族としての情が分からないわけではなかったでしょう。

 しかし、彼はこの旅に、リベカとの出会いに、神の確かな導きの御手をおぼえていました。「主が私の旅を成功させてくださったのですから」を聖書協会共同訳は「この旅の目的をかなえてくださったのは主なのですから」と訳します。彼は一刻も早くイサクのもとにリベカを連れて行きたいということを含めて、主の導きだと信じていたのです。

 決断はリベカにゆだねられました。彼女は「はい、いっしょに行きます」と答えました。

 一度も出会っていない、見合いも交際もしていないで結婚を決断するなどということは、今ならとても考えられないことです。けれども、ここに結婚とは何かということについて忘れてはならないことが込められているように思います。結婚はゴールではなく、神が二人を合わせて一つにしてくださるというスタートなのだということを改めて、ここから考えました。


確かな道に

2023年02月24日 | 創世記

創世記 24章28−49節

 季節の変わり目だからでしょうか。体調を崩している方が何人かおられます。それほど遠くないところでの長引く戦争、何となく完了感のない感染症疲れなどの世の中の動き、身近な家族の問題など、ストレスの原因は限りがありません。夜眠ることができるのは、まさに奇蹟だとも思えるのです。

 イサクの妻を求めてアブラハムから遣わされたしもべは、リベカとの出会いを神の導きによるものだと確信し、リベカの家族を訪ねます。昨日も書きましたが、彼は物事を誇張や矮小なしに、正確に伝えています。これはできそうでできないこと。大げさに伝えたり、自分の感動を押しつけがちになりやすいのですが、しもべは神からの確信を得ながらも、リベカの家族に判断をゆだねます。

 48節に「私を確かな道に導いてくださった」とあります。

 神に信頼して歩む人は、話の隅々に「神の導き」「神が導いた」などということばをそれほど意識しないで用います。人生は、物事は自分の知恵や力で切り開いていくものと考えている人が聞くと、主体性がないとか弱々しいとか言うかもしれません。

 でも、すべてが自分の力や才覚だけで動かせるものでもありません。成功して喜び誇り、失敗して悲しみ落ち込むということだけが生活ではないのだと、立ち止まると考えるのです。失敗だと思ってしばらく落ち込んではみたが、それがよい経験だったということは少なくないな、と思います。

 あらゆる経験を通して、神はご自分の民を「確かな道に導いてくださ」る。


祈りをもって始める

2023年02月23日 | 創世記

創世記 24章1−27節

 「朝霧は晴れ」とよく言われますが、きのうの「灰の水曜日」は霧から始まりました。

 大切な用件を頼むとき、だれに頼むかは結果を左右します。アブラハムがイサクの妻となるべく女性を探すように頼んだのは、十分に信頼に値する人でした。2節はこの人を、「自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべ」と描きます。その後のアブラハムとのやりとりや、実際に出かけた先での行動によって、アブラハムの選択が正しかったことを伝えています。

 不明なところを理解できるまで確認すること、女性が集まる場所と時間をわきまえていることなどはもちろのこと、何よりもこのしもべが神を恐れ、神が物事を動かされると信じているということに、アブラハムの信頼の鍵があったように思われます。

 神を信じる者は、祈りをもって始め祈りをもって終えると言われます。彼は祈りをもって事を始め、礼拝をもって終えています。

 神学校の教師がある時に授業に遅れました。彼は私たちに遅れたことを詫び、理由を話してくれました。事故に巻き込まれたとのことでした。その時教師は言いました。「でも、家を出る時に神さまに祈ったので心配はしていませんでした。」それは、忘れられないことばとしてずっと私の心にとどまっています。


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