みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

人々は彼によって祝福され

2014年12月31日 | 詩篇

詩篇 72篇

 今朝は、「朝歩きじまい」。妻がいっしょでした。終り頃にご近所の大先輩とばったり。いつも朝歩きをしておられます。「きょうは済んだのですか」と妻が尋ねると、「12月は寒いのでお休み」といってニッコリしておられました。

 詩篇72篇に描かれている理想の王の姿は、メシヤとしておいでになったお方を指し示しています。この王は人を偏り見ることなく神の義をもって公正にさばきます。特に、悩む者を弁護し、貧しい者たちを救うのです。

 考えてみますと、自分はだれもが罪に悩み苦しむ者であり、真の豊かさを持たない貧しい者なのです。神の義をもってそのような者たちを弁護し、救ってくださったのが私たちの主イエス・キリスト。人は力を持つと、それを自分の利益にななるようにと使おうとします。この一年報道されたあの日とこの人の顔も浮かびます。そうしているうちに自分の顔も浮かんできます。

 けれどもこのお方は、人を足蹴にするために全能の力を用いることはなさいませんでした。

 この詩篇に描かれている王の姿はやがて必ず実現するのです。年をまたぎ次の年を迎えるというのは、王がこの世界においでになる時がさらに近づいたということなのだと思います。

 「「主よ、来てください」という1コリント15章22節のことばを、きょうの祈りとします。

 一年間、「みことばの光的毎日」をお訪ねくださりありがとうございます。

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変わらずに

2014年12月30日 | 詩篇

詩篇 71篇

 この詩篇に「年老いた人の祈りの歌」とタイトルをつけた人がいます。

 作者が若かった頃から、いや母の胎から取り上げられた時から年老いたいままでずっと、神が作者の主であり、巌でありとりでだと歌っています。そして今、作者は年老いた今も自分を捨てないでほしいと願うのです。

 この詩篇には「~してください」という神への願いと、「ほめたたえます」という神への賛美とがちりばめられています。神は胎内にいる時から老人の今に至るまで変わらずに作者を守り支えてくださり、作者は変わらずにずっと神をほめたたえ続けているのです。

 神への賛美を拾い出してみました。

 あなたこそ私の巌、私のとりでです(3節)。
 私は、私の若い頃からの私の望み、私の信頼の的です(5節)。
 私はいつもあなたを賛美しています(6節)。
 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています(8節)。
 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう(14節)。
 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう(15節)。
 私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています(17節)。
 私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます(18節)。
 私もまた、六弦の立琴とをもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを(22節)。
 イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います(22節)。
 私のくちびるは、高らかに歌います(23節)。
 私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう(24節)。

 「いつも」「絶えず」「いよいよ切に」「一日中」「今もなお」ということばは、作者がずっと神を賛美し続けてきたことを伝えています。

 この一年、変わらずに神をほめたたえ続けてのだろうかと、問いかける詩篇です。

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遅れないでください

2014年12月29日 | 詩篇

詩篇 70篇

 年末で、昨日は三人の孫がわが家にお泊まり。いっしょにいるのがうれしくって楽しくってたまらない様子です。階下で妻が孫たちといっしょに聖書を暗唱し、お祈りをしている声が漏れ聞こえてきます。

 「みことばの光」が書くように、満天の星の下で静かに「神よ」と祈るときもあれば、「急いでください」「遅れないでください」と切迫感をもって祈らなければならないときもあります。救急車の出動を求める緊急電話をかけるようなことかもしれません。

 心に留めたのは4節。「あなた」ということばが繰り返されます。しかも、ここには信仰者は独りぼっちではないという、広がりが感じられるのです。

 いのちを求め、わざわいを喜ぶ者、「あはは」とあざ笑う者たちが迫っている中で、ダビデは自らの喜びや平安の土台を自分にではなくて、神に置いているのだということが伝わってきます。

 神を「あなた」と呼ぶことのできる立場に自分もいられることが、大きな喜びです。

 

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重荷をになう神

2014年12月27日 | 詩篇

詩篇 68篇

 「今年最後の…」ということばがあいさつの折りに交わされる頃になりました。この年を回顧する時でもありますね。

 「神よ。立ち上がってください」で始まる68篇。神が立ち上がってくださったのならば、目の前の敵は追い払われ、私たちは小躍りして喜ぶのだとの願いが込められています。

 ダビデはそのように願う中で、神が歴史の中でご自分の民のために幾度となく立ち上がり、みわざをなしてくださったかを思い起こしています。「みことばの光」が書くように、それは出エジプトであり、荒野の旅であり、カナンへの進入と定着なのです。

 「立ち上がってください」と願うようなときとは、自分が苦境にあるとき、八方塞がりにあって神が何もしておられないのではないか、と疑うような事情を想像します。けれどもダビデは、歴史を回顧して神のみわざを数えるうちに、「いや、神は自分のために何もなさっていないのではない。日々、重荷をになっておられるのだ」というような確信を抱いたのではないか、と想像しました。

 「重荷をになわれる主」ということばに目が留まります。

 「みことばの光」は、「『重荷をになわれる主』には、神が民の代わりに重荷を背負うとともに、民そのものを背負ってくださるという意味もある」とあります。自分のような者を重荷とはなさらずに、背負い続ける神のご愛の大きさに驚くばかりです。

 「胎内にいるときからになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」イザヤ書46章3、4節

 

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すべての国々の間に知られるため

2014年12月26日 | 詩篇

詩篇 67篇

 今年最後の早天祈祷会。冬至が過ぎてちょっと朝が早くなった気がしました。その日の「みことばの光」の聖書箇所を読み、「みことばの光」を読んでいっしょに祈る会が週に二度ずつずっと持たれてきました。うれしかったのは、早天祈祷会に参加する方が増えたこと。

 「神さま。私を祝福してください」とは私たちの願いであり祈りです。詩篇67篇にもこの祈りが繰り返されます(1、6、7節)。クリスマスカード、年賀状、そして個人的な便りにも、いちばん多く書いてきたことばが「神があなたを祝福してくださいますように」ということばだったと思います。

 「祝福してください」とは、他の人よりも良い生活を送ったり、他の人にまさる人間となって成功するための願いではないということを、2節から考えます。「私を、私たちを祝福してください」と祈るのは、「あなたの御救いがすべての国々の間に知られるため」なのです。

 それは、自分がどれほど神に祝福されて物事をうまくやり遂げ、難事を切り抜けることができたかを自分の誇りとするのではないのです。神があがめられるということこそが、祝福を賜った人によって伝えられる最もたいせつなメッセージです。

 自分のような者によって神のすばらしさが人々に届けられるものかしら…と不安になるかもしれませんが、それは必ずしも成功することによってしか届かないのではありません。うまくいってもいかなくても、神の前に真実に歩もうとするならば、そのような人によっても神があがめられるのだとも言える、と思っています。

 

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