みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

しかし、主よ

2013年12月31日 | 詩篇
詩篇41篇


 詩篇第一巻の結びが41篇。
 「幸いなことよ」と始まった第一巻が「幸いなことよ」で結ばれます。ある解説には、「1篇は主に対する愛がさいわいをもたらすことを教え、41篇は人を愛する者に主が祝福を与えることを教える」とあります。
 
 「みことばの光」のタイトルのように、41篇は「病床の歌」です。
 病の床に伏す人に心を配る人の幸いを歌ったあと、ダビデは自らが病床にあった時の経験を歌います。
 そこでは自省があり、敵の悪意ある陰口が聞こえてきます。親しいと思って心を許していた友は離れていきました。
 身体が病む時、やさしく親切にしてもらったらどんなにかホッとするでしょうが、反対だったら心まで病んでしまうことでしょう。ダビデは病床でそのような体験をしたのです。

 「しかし、主よ」はまさしく起死回生の一言です。すべてをひっくり返す力のあることばです。
 「あいつはもう二度と立ち上がれないだろうよ」との敵のことばをむなしくするのは主であることを、ダビデは病の床で学び直したと言えるでしょう。
 病の床でのたうち回り、人のことば、裏切りにがっくり来ても、「しかし、主よ」ということばが私たちに与えられているとは、何とありがたいことかと思います。

 この一年も、拙いブログをご愛読いただきありがとうございます。
 あなたの「みことばの光的毎日」がゆたかなものとなりますよう、祈ります。
      


私の耳を開いて

2013年12月30日 | 詩篇
詩篇40篇


 今年もあと二日になりました。郵便局に行くと、駐車場は年賀状を出しに来た方で混雑。私? 「さて、年賀状を作ろう」と買いに行ったという次第です。
 また、ガソリンを満タンにしようといつものスタンドに行くと、お店の人とばっちり目が合って…。いい笑顔で近づいて来られ「年内はタイヤが安いです!」と言われて愛車のタイヤを見ると、溝がほとんどありません! こちらの必要とお店の人のセールスとが合わさって、タイヤを交換することにしました。
 (言い訳ですけれども)そんなこんなで、ブログの更新が遅くなりました。

 「みことばの光」が記すように、詩篇40篇は困難から救い出されたときの歌と、困難の中からの歌との二部構成になっています。それはそのまま、私たちの人生をも投影しているように思います。苦しい目に遭ったときに神に信頼して乗り越えられたと思ったのも束の間、今度は前よりももっとつらい目に遭っています。「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざ…」と賛美し感謝したあとに、「主よ。急いで、私を助け出してください」との気球の気乗りが続くという具合に。

 心に留めたのは「あなたは私の耳を開いてくださいました」とのことば。
 どんなところにあっても、神は私の目をふさぐことなくみことばをよく聴くことができるようにしてくださったということです。聖書は「聞きなさい」を繰り返します。いつでも聴けるように、神はみことばをすぐそばに置き語っておられるのです。
 ありがたいと思います。
     


それでも待ち望む

2013年12月28日 | 詩篇
詩篇38篇


 きのう午後、24日に洗礼を受けた方を訪ねました。
 利根川を渡ると赤城山がぐんぐんと近づいてきます。やがて畑の中にドーンと赤城山が! どこを見ても山が見える土地で育ったせいか、山が近くに見えるというだけでホッとします。1時間足らずでこんな場所に来れるのだと知ると、これまでがもったいないような気分になりました。でも、家に戻ってもホッとするのです。「ホッ」を分析するとおもしろいかもしれないなどと、どうでもよいことを考えながら帰路につきました。

 38篇は重く暗い詩です。「記念のためのダビデの賛歌」とありますが、カルヴァンは「ダビデは彼が蒙(こうむ)った懲罰を、あまりに速やかに忘れ果ててしまうことを恐れて、彼自身のためにも、他の人々のためにも、この詩篇をいわば記念として執筆した」と書いています。
 「サムエル記」によるダビデの生涯のいろいろな出来事の中で、この詩篇と結びつくのはあのバテ・シェバ事件でしょうか。51篇が罪赦された喜びを歌い上げたものだとしたら、38篇は罪を犯したダビデの苦しみを垣間見せてくれるものだといえるでしょう。

 「身から出た錆」とは言っても、「みことばの光」がまとめているように、このときダビデは三重苦ともいえる苦しみの中にありました。しかし、彼はそのような中でも主を待ち望みます。主の答えを必死に願っています。
 ここに、信仰者の望みの真髄があるように思います。よいときも悪いときも、義のために迫害されているときも人を苦しめ傷つけたときも、「私の力は私を見捨て」るようなときも、人から見放されたときも、「主を待ち望みます」と祈るさいわいは、イエス・キリストの十字架によって賜ったものです。

 これが真の「ホッ」なのです。
    


地を受け継ごう

2013年12月27日 | 詩篇
詩篇37篇23-40節


 昨日の午前に家庭集会がありました。
 今朝の早朝祈祷会で、主催しておられる方が昨日は99回目の家庭集会だとおっしゃっていました。月に一度に行われていますので、1年に12回としても8年以上経ったということになります。
 メモ帳には1回ごとの出席者のお名前が書いてありました。多くが教会には普段おいでにならない方。けれども、この中から洗礼を受けた方もおられます。信仰者としての「元気」を回復した方もおられます。「継続は力なり」とはよく言われますが、そのとおりだと思います。最初の15分ぐらいが聖書からのお話(私の担当)、残りの時間みんなでお昼をいただくというのが普段の持ち方。ゆったりしているのが続く理由のひとつなのかもしれません。

 詩篇37篇後半を読み、「地を受け継ごう」とのことばに目が留まりました。改めてこの詩篇全体を見渡すと、繰り返し使われています。
 「しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」9節
 「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。」11節
 「主に祝福された者は地を受け継ごう。」22節
 「正しい者は地を受け継ごう。」29節
 「主を待ち望め。その道を守れ。
  そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。」34節

 悪者は束の間だが、主に信頼する者は地を受け継ぎ、いつまでも住みつくという対比が鮮やかです。一時(いっとき)悪者が力を握り、意のままに人を操り正しい者(神を恐れ敬う者)に苦しみを与えるようなことがあったとしても、悪者ははかないものだと作者は歌います。

 地上のことは一時であり、大切なのは天における永遠ということは忘れてはならない信仰者の姿勢。けれども、「地を受け継ぐ」ということばは、地のことなどどうでもよいというのではない、ということに気づかせてくれます。
 
 首相の靖国参拝の報に心は暗くなります。祈りましょう。そして次のチャンスで「交代」を宣告しましょう。


腹を立てるな

2013年12月26日 | 詩篇
詩篇37篇1―22節


 昨日訪ねた家の玄関にあったものです。クリスマスの飾りがいっぱい。Img_1219

 日本では、町もお店も25日の夕方にはさっさとクリスマスの飾りが取り払われて、お正月向けに衣替えします。さあ、今度は正月商戦で…! という意気込みでしょうか。しばらく前日光に行った時、「毎日がクリスマス」という看板を見つけました。よく見ると高齢者のための施設の名前でした。
 考えてみますと、私たちにとっては「毎日がクリスマス」なのです。毎日イエスさまをあがめ、礼拝し続けていくのですから…。

 年末年始、「みことばの光」では詩篇を味わいます。37篇は「箴言的な詩篇」といってもよいかもしれません。正しい者がいて悪者がいる、そしてそれぞれの結末が明らかにされています。この場合、正しい者とは神を恐れ敬う者、悪者とは神はいないと言ってはばからない者のことです。

 心に留まったのは、「みことばの光」が解くように繰り返される「腹を立てるな」ということば。
 したい放題、好き勝手をして栄えている悪者を見て、正しい者は腹を立てているのです。神を恐れないのにどうして彼らは栄えるのかという疑問もあることでしょう。さらに腹立たしいのは、相手は数も多く力も強いのに引き換え、こちらは一人だということです(16節をそのように見ることもできるでしょう)。

 しかし、作者は腹を立てている正しい人に、腹を立てずに誠実に毎日を歩めと勧めるのです。結末が明らかだからです。神がそれぞれをふさわしくさばかれるということの確信ゆえに、腹を立てるなと勧めます。

 正しい者に主がどのような約束をしておられるのかをこの箇所から拾い上げていくと、腹立ちが収まります。 



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