みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

日の昇る所から…

2017年01月31日 | 詩篇

詩篇 113篇

 雨の一日でした。そのためか、気温はこれまでよりも高くなりました。凍っていた川もこれで氷が解けたのではないかと思います。昨日は、日本からのお客様を迎えに空港へ。久しぶりの再会でした。スーツケースには、いろいろな方々からのお土産がいっぱい詰まっていました。羊羹も!

 本詩篇は「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わります。「ハレルヤ」というのは、「主をほめたたえよ」ということですから、ここには、「ほめたたえる」ということばがたくさん出てきます。「今よりとこしえまで」という2節のことばと、「日の上る所から沈む所まで」という3節のことばは、時間的に、また地理的に限りなく主をほめたたえるようにとの呼びかけのように響きます。

 家族としばしば連絡を取り合うのですが、ある時、孫たちが「きれい!」と言って、沈もうとする太陽を見せてくれました。この時期ですと、同じ頃当地は太陽が昇る時。朝日がとてもきれいでした。日本では太陽を夕日として眺め、こちらでは朝日として眺めているのだと思うと、不思議な感慨をおぼえました。「日の上る所から日の沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように」ということばから、思い起こしたのです。

 「主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる…」ということばの向こうに主イエスのお姿が見えます。このお方は、ご覧になっておしまい、ではなくて、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げて、…王座に着かせられるという約束を、十字架によって信じるすべての者にお与えになりました。

 ハレルヤ! とほめたたえずにはおれません。


光をやみの中に

2017年01月30日 | 詩篇

詩篇 112篇

 日曜日の礼拝では洗礼式が行われました。その方は、お子さんを教会に送り迎えすることがきっかけの一つになったと話しておられました。そう言えば、奥さまを教会に送り迎えすることがイエスさまを迎え入れるきっかけになったご主人もいた…と思い出しました。

 詩篇は、1篇の「幸いなことよ」ということばから始まりますが、この112篇もまた「幸いなことよ」で始まります。詩篇をずっと味わってきて、ここでもう一度詩篇のテーマ、いや、聖書全体のテーマを再確認するような思いです。「幸いなことよ」「しあわせなことよ」と言われると、しあわせってどんなことなのだろうかと考えます。

 「幸い」とか「しあわせ」とかを、数値化することはできません。いや、「幸福度ランキング」なるものががありました。主観的なものですが、しあわせと感じている人の比率から、不幸だと感じている人の比率を引いたものなのだそうです。

 けれども、それは詩篇1篇や112篇が「定義する」幸いとは違います。詩篇112篇が述べるしあわせとは、神を恐れ、人を愛することです。それは、聖書全体の戒めを要約している「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばと符合します。(マタイの福音書22章37-39節をお読みください)

 きょうは、4節の「光をやみの中に輝かす」ということばを心に留めました。やみの中で、人は光を欲します。人生のやみとも言える大変なところを通される中で、神は光をやみの中に輝かせてくださるというのです。そのようなお方が神なのだとしたら、このお方を恐れ、このお方の仰せに耳を傾けて歩む者こそ、幸いなのです。


山と谷の地

2017年01月28日 | 申命記

申命記 11章

 生まれ育った場所は四方が山に囲まれた盆地でしたので、結婚して落ち着いた平野の真ん中に住んで寂しさをおぼえることもありました。冬になると平野の縁の山々がくっきりと見えるのですが、ふるさとの近さではありませんでした。木曜日に、西に20㎞ほどの町を訪ねましたが、そこはなだらかな山が近くに見えますので、何となくホッとします。

 11章10節、11節でモーセは、イスラエルの民が奴隷として住んでいたエジプトと、これから入って攻め取ろうとしているカナンの地とを並べています。この箇所についてある書は、「新しい地カナンは、水が絶えず供給されていたエジプトのような自然の恩恵のない、ごつごつした土地であった」と説明しています。別の書は、「…エジプトの地と比較して、そこ(カナン)がいかに恵まれた地であるかを強調している…」と解説しています。

 どちらなのかしら…? と迷うところですが、ここでモーセは、自然の恩恵がどのようなものであれ、そこは主が約束しておられる地であり、「あなたの神、主が、絶えずそのうえに目を留めておられる地」であるので、豊かな恵まれた地だと言いたいのではないでしょうか。

 「山と谷の地」ということばから、「人生、山あり谷あり」ということばを思い出しました。順境の時もあれば、逆境の時もあるというような意味で用いられますね。神の民は、常に良いことばかりを体験できるわけではありません。「なぜ…?」と問いかけたくなるようなことも起こります。しかし、祝福とは「神が絶えずそのうえに目を留めておられる」ということなのだというのに気づいた一言でした。


ただ、…

2017年01月27日 | 申命記

申命記 10章

 夕方公園を歩くと、照明の下で子どもたちがサッカーの練習をしていました。とても上手で、見とれてしまいました。寒さはまだ厳しいですが、昼が長くなってきたのがわかります。

 モーセの回想と,民へのことばが続きます。この時からおよそ40年前、ホレブで主から賜った十戒の石の板は民の背きの罪ゆえに、モーセによって粉々にされました。それとともにモーセは民を滅ぼさないでほしいと主にとりなすのです。主はモーセの祈りを聞き、再び二枚の石に十のことばを書き記してくださったとモーセは振り返ります。それは、民が再出発できるということでもありました。

 約束の地を目の前にして、モーセは主がイスラエルの民に何を求めておられるのかを語ります。12節から22節を声を出して読みました。ここは、民への命令と命令をお与えになる神がどのようなお方なのかが交互に出てくるように思えました。12節に「それは、ただ、…」とあります。「ただ」ということばに目がとまります。神のことばを聞き、行うとは、神の民に求められる生き方です。それは、神がどのような方かを知ることと切り離すことはできません。神を知らずに神のことばを守ることはできません。

 就任したての大統領のつぶやき、声に、周りが振り回されているようなここ数日だった気がします。そのような中、19節にある命令を心に留めました。あなたがたもかつては在留異国人だったのだから、在留異国人を愛せよとのことばが、今に響くようです。事はもっと込み入っていると言われそうですが、壁を築くという政策がしっくりこないのは何なのでしょうか。


逆らいどおし

2017年01月26日 | 申命記

申命記 9章

 貯まっていた手紙の整理をしました。

 気をつけなければならないのが税務署や保険会社からの手紙。わからないと放っておいて、わずかでしたがペナルティを取られたことがありました。スキャンした後で、文字データに変換後、翻訳ソフトを使ってだいたいの内容を把握します。この頃の翻訳ソフト(インターネット使用の…)はすぐれものです。ちょっと前のように、可笑しい訳はぐっと減りました。二人で以前学んだドイツ語テキストをおさらいしましたが、遅々とした歩みではあっても、ちょっとは前に進んでいるのだと納得、というか、自己満足。

 きょうの箇所には、イスラエルの民への厳しいことばが続きます。モーセは彼らのことを、神に「逆らいどおし」、さらに、「いつも主にそむき逆らっていた」と言っています。ホレブ(シナイ)、タブエラ、マサ、キブロテ・ハタアワ、そしてカデシュ・バルネアは、エジプトを出た民が神に逆らった「記念の」場所です。

 ですからモーセは、これから入って攻め取ろうとしている大きくて強い国々を主が「焼き尽くす火として」根絶やしになさるのは、あなたが正しいからではないのだと念押しをしています。「逆らいどおし」の者のために主なる神が戦ってくださるのは、主が約束したことを必ず成し遂げるお方だからであり、また、逆らいどおしの民をそれでも愛し、恵んでおられるからです。

 「逆らいどおし」などと、教会で互いに言い合ったら大変なことになってしまいます。けれども、よくよく自分を振り返ってみると、否定できる理由など何一つないのです。モーセのとりなしによって彼らは滅ぼされずに済みました。主イエスの十字架のとりなしによって私たちは滅ぼされないであるのです。


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