テサロニケ人への手紙第一 2章1−12節
1月がようやく終わろうとしています。年の初めの月はずいぶんとゆっくり過ぎるように思うのですが、今年は特にそう感じました。太陽が顔を出し、草花が芽を出し花を咲かせる春を待ち望む思いが強いからなのでしょうか。いかがですか。
きょうの箇所でパウロは、テサロニケの人々にどのような動機で福音を伝えたか、どのように生活したかを書いています。動機も生活も、きょうの「みことばの光」タイトルにあるように、「神の神による神のための」でした。背景には、パウロの宣教に疑いを抱く人々がいたということが考えられます。それにしても、自分の働きや生活について後ろ指を指されることは何一つないと言い切るとは驚きです。それは、真に神を思うからこそ、キリストの福音だけが人を救いことができると信じているからこそ、テサロニケの人々を愛しているからこそ、できることだと思います。
「みことばの光」には、「権威的ではなく幼子のように」という二番目の見出しがあります。これは、7節にある「優しくふるまいました」と訳されることばが、新約聖書の多くの写本で「幼子」ということばを用いていることによるものです。それで、「……幼子のような心で語った」と書いているのです。
「幼子のような心で語る」とは、どのようなことかを考えてみました。ある注解者は「宣教者が聴衆に自分を合わせる、思いやりのある振る舞いを示すもの」と書いています。パウロはテサロニケの人々に合わせて、彼らがわかるように福音を伝えたということなのでしょう。
ここに、福音を届ける者が持つべき大切な姿勢が記されています。