みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

同じようにすること

2016年05月31日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 23章24−32節

 日曜日の夜は激しい雷雨。私たちの体験を超えた自然の激しさや繊細さ、大きさや細やかさに神の創造を覚えることがありますね。主がヨブに語りかけたことばを思いました。 

 「だれが、大水のために水路を通し、いなびかりのために道を開き、人のいない地にも、人のいない荒野にも、雨を降らせ、荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。」ヨブ記38章25−27節

 これまで、幕屋を解体し、運び、また組み立てていたレビ人の働きは、エルサレムに神の宮が完成するとともに必要がなくなります。それでは、彼らも必要がなくなるのかというとそうではないということを、ダビデは伝えます。レビ人は、祭司であるアロンの子らを助け、神殿の庭、脇部屋、きよめて聖なるものとすることに関する主の宮の奉仕をするようになります。そして祭司についての細々(こまごま)とした指示も続きます。

 奉仕について、続けることの必要を覚えるとともに、時とともに変わっていくこともあるのだということを考えることばです。

 ブログの読者の中には、日曜日ごとに教会で礼拝をしている方もおられるでしょう。教会にはそれぞれ、礼拝式の形式や順序などにおいて長い間守り続けているものがあるのだと思います。なじんでいることとは違う礼拝に参加して戸惑ったり、感動したりするということもあり、次にはどちらがよいのか…と比べることへと進むかもしれません。

 自分たちが守り続けたものを大切にするとともに、決してそれを絶対のものだとしないということが肝心なことではないかと、考えました。

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礼拝を中心に据える

2016年05月30日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 23章1−23節

 5月最後の日曜日は、これまで4年以上いっしょに礼拝してきたご家族にとっての、当地での最後の礼拝となりました。寂しい思いは否めませんが、ここから主はご家族が日本にお遣わしになるのだと、受け止めました。海外邦人教会の姿を改めて確める時となりました。

 できる限り歩くことにしているのですが、最近はバラの花に歩みが留まります。数日は、バラの写真でお楽しみください。

 1節に「ダビデは老年を迎え、長寿を全うして、その子ソロモンを王とした」とあります。決まり切った四文字熟語を用いれば「波瀾万丈」の生涯でしたが、「長寿を全うして」ということばにダビデが幸いな老人だったということを伺わせます。しかし、彼は王位をソロモンに譲ったら、後は何もすることがなくて穏やかな日々を…というのではなくて、ソロモンが建てようとしている神殿での礼拝のための備えに心を傾けたのです。

 これまでの章でダビデは、神殿のための資材、人材を可能な限り集め備えました。それは建物のための備えです。ここでダビデは、ソロモンが建てる神殿で行われる礼拝のために備えているのです。これらの備えに傾注するダビデの姿から、イスラエルという国が立ち行くためになくてならないのは神への礼拝だということが見えてきます。礼拝を中心に据えているのです。

 暇だから、余裕があるから礼拝するのではなくて、神を礼拝することが私たちの生活の中心に据えられ、真っ先に位置づけられているのかどうかを探られる記事だと思いました。

 

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どんな仕方で…

2016年05月28日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 21章18−30節

 歴代誌第一21章の後半は、人口調査というダビデの罪がどのように収れんしていったのかということが記されています。主は先見者ガドによって、ダビデがどこで何をしなければならないのかをお告げになりました。ダビデは、そのとおりのことをしました。

 あなたの打ち場の地所で主のための全焼のいけにえをささげたいとダビデ王から聞いたオルナンは、王の申し出であれば必要なものは全部差し上げるので自由に使ってほしいと答えます。しかし、ダビデは全焼のいけにえのための地所を金の重さ600シェケルで求めて、祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげます。そして、自分のやり方によってではなくて、主のことばに従って犯した罪の悔い改めをし、献身を新たにし、主との交わりの回復を願い喜びました。

 日本ではある自治体の長が公費を自分のために用いたことが問題になっています。記者会見の席で「第三者の方によって…」とその方が繰り返し答えていたと報じられています。自分のやり方によってではなくて、公平な立場の人によって検証してもらうということなのでしょうが、かえって不信を増幅させてしまったようです。

 何かをしでかしても、できるだけ自分の責任にならないように言い訳をするというのは、いろいろなところで耳にすることですし、自分にも思い当たることがたくさんあります。約束の時間に遅れたとき、「ごめんなさい。遅くなりました」とだけ言わずに、「電車が遅れて」とか、「道路が混んでいて」などと一言付け加えたくなるのが私たち、ではないでしょうか。潔さとは「ごめんなさい」と罪を認めることなのですが、なかなかできないのですね。

 罪を犯した者がどのようにしたら回復できるのか、「主は…彼に答えられた」という26節のことばを心を留めました。

 

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誘い込まれて

2016年05月27日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 21章1−17節

 

 木曜日はカトリックの「聖体拝受祭」という祝日。しかし、これは全国の祝日ではなくて、当地ヘッセン州など南部から中西部8州が祝日です。ところが、10月31日の「宗教改革記念日」はドイツ東部諸州が祝日になります。興味深いですね。

 ということで、きのうは午後からこんなものを組み立てました。途中難しいところもありましたが、無事に完成! 達成感を味わいました。

 この章には、ダビデが人口を数えて罪を犯したということが記されています。聖書には、文字通り「民数記」には、二度も神が命じて人口を数えさせたことが記されています。それなのになぜ、ダビデの人口調査が問題になったのかに引っかかりを感じる人も多いのではないのでしょうか。主も人口を数えるようにお命じになったことがある、国も安定して民の支持もあるから人口を数えるのは今だ、という思いに至ったのでしょうか。

 1節に「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで…」とあります。王としての立場を堅固にしたダビデだからこそ、サタンが狙ったのです。ここに、ダビデのなしたことが罪としてとがめられる理由があります。

 表向きは同じことで、どこが違うのかがわかりにくいことがたびたびあります。だれが見てもよいことであっても主がだめだと言われるのだとしたら、なぜそれをするのかという動機が問われるということではないでしょうか。 達成感をサタンが狙ってということもあるのです。

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金の冠

2016年05月26日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 20章

 この章は、「年が改まり、王たちが出陣する頃」で始まります。これと同じ出だしはサムエル記第二11章です。この二つの章を読み比べてみますと、サムエル記には記録され、歴代誌に省かれている出来事があることに気づきます。ダビデが姦淫と殺人を犯したという罪です。歴代誌の作者にダビデの不祥事を隠してよいところだけを書こうとする意図はありません。歴代誌を読む者にはすでに周知の出来事であるということを前提としているのだと考えます。ダビデが罪を告白し、悔い改め、赦されたことを書く者も読む者も了解しているのです。

 サムエル記によるならば、ダビデの頭にアモン人のの王の金の冠が載せられたのは、ダビデが悔い改めて後のことだということです。ということは、ダビデの頭に重さ34キロの金の冠が被せられたというのは(そのあまりの重さゆえに長い間被ったままではいられなかったでしょうが)、もちろん、ダビデの勝利を表わすものですが、それとともに、罪を告白し悔い改めた者への神の恵みの大きさ、豊かさを象徴するものだとも言えます。

 金の冠を被るダビデの姿と、一番よい着物を着せられ指輪をはめ、くつを履いている放蕩息子の姿とが重なる思いがします。⇒ルカの福音書15章22節 赦される恵みの豊かさ、大きさが伝わってきます。「こんなものでいいのですか」と、まじめにやっている人からは非難されるほどのことかもしれませんが、よくよく考えてみますと、私たちも同じように豊かに赦されているのです。

 頭に乗り切れないほどの重さの金の冠以上の恵みを賜わっているのですね。

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