みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そこも聖所

2024年10月31日 | 詩篇

詩篇 63篇

 本日は「宗教改革記念日」です。1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95ヶ条の提題」を発表し、宗教改革が始まったことを記念して制定されました。ルターが作曲し、J.S.バッハが編曲したコラール「神はわがやぐら」は讃美歌にも入っており、よく知られています。ドイツでは州によって休日のところも平日のところもあります。

 63篇は、表題に「ダビデがユダの荒野にいたときに」とあります。「ユダの荒野」は、彼がサウル王から逃れ回った所です。彼は「あなたは私の神」と呼びかけます。主は私たちの(われらの)神でありますが、ダビデにとっては「私の神」でもあるのです。こう呼びかけることのできる近さがダビデと神との間にあったことが伝わってきます。

 荒野は水のない衰え果てた乾いた地です。ダビデは荒野で、自分のたましいが「あなたに渇き」と歌います。詩篇42篇1節の「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように   神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます」を思い起こさせることばです。

 2節の「聖所」とはどこにあるのだろうかと、考えました。ダビデは荒野の中、サウルがいのちを狙って迫ってくる中で、そこを神の臨在の場、「聖所」だとしているのです。どこか特別なところに行かなければ、神に会うことはできないとは考えず、彼は、敵が追い迫るここを神の臨在のところとしています。

 そこも「聖所」なのです。 


多勢に無勢ではない

2024年10月30日 | 詩篇

詩篇 62篇

 帰国して最初にしたのは、充電できないタブレットを修理に出すこと。新宿駅前の大画面のビルの中にそこはありました。充電口の故障かと思ったら、充電はできるとのこと。お店の人の見立てではバッテリーの劣化の疑いがあるそうです。

 62篇は個人的に愛唱している詩篇の一つです。8節の「民よ どんな時にも神に信頼せよ」ということばは、これまで何度読み、自分に問いかけてきたことでしょうか。

 この詩篇は「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む」で始まります。「私は…」ではなく「私のたましいは…」とあることについて、考えます。自分の深いところで神を待ち望む(5節では「神を待ち望め」)と祈るダビデは、とても大きな危機の中に投げ込まれていたと想像できます。

 3節に「おまえたちは いつまで一人の人を襲うのか」とあり、「こぞって打ち殺そうとしている」とあります。しかも彼らは、「敵らしく」狙っているのではないことが、厄介なのです。「偽りを好み、口では祝福し 心では呪う」のです。

 そのような「敵」に対して、ダビデは始めから立ち向かおうとはしません。まず「黙って ただ神を待ち望む」のです。「ただ」ということばも心に響きます。危急のときに、あれもこれも…とするのではなくて、神を待ち望むことだけをするのです。

 3節を読んで「多勢に無勢」ということばを連想しましたが、いいや、「多勢に無勢ではない」のです。神こそ、私の救い、私の岩、やぐら、避け所だから…。

*ヴィッテンベルグ城教会


及びがたいほどの高い岩の上に…

2024年10月29日 | 詩篇

詩篇 61篇

 きょうから一週間少し日本にいます。空港のセキュリティチェックで、いつものようにコンピュータをリュックサックから出そうとしたら、「出さなくてもいいよ! この器械は最新鋭だから…」とニコニコ笑顔で言われました。12時間30分のフライトを控えて、これを書いています。

 心が衰えているダビデ。彼はこの時の自分を「地の果てから」と表現しています。それは自分が全く見捨てられてしまったような、孤独と絶望の所です。しかし、そこからでも彼は祈ることができるのです。

 ダビデの祈りは大胆です。彼は「及びがたいほど高い岩の上に」自分を導いてくださるよう祈っています。ダビデと主との関係は彼がどこにいてもつながっています。そのつながりは、大胆に自分の願いを伝えることができるというものです。

 「及びがたいほど高い岩の上」とは、高い所に住まわれる主の所に、主がおられる所にということです。4節で彼は、「あなたの幕屋にいつまでも住み 御翼の陰に身を避けます」と祈ります。

 私が住む所、これを読んでいるあなたが住む所、それはさまざまです。しかし、キリストゆえに私たちは、ダビデと同じ確かな希望を持っているのだということに気づかされます。

 さらにダビデの祈りは広がりを見せます。王のために祈るのです。今日の「みことばの光」が書くように、ここでの「王」とは彼の子であり、王位継承者のソロモンのことでしょう。

 自分のためにではなくて、誰かのために神に祈ることは信仰者の特権であり、務めでもあります。それは、神が自分を「及びがたいほどの高い岩の上に」置いてくださるという確信があるから、力強く誰かのために祈れるのだと思います。

 


主の書物を調べて読め

2024年10月28日 | イザヤ書

イザヤ書 34章

 日曜日午前、当地から70キロほど北を往復しました。青空も素敵なのですが、霧の中の紅葉は趣があります。

 本章には、神の審判が諸国に、そしてエドムに下されることが語られています。

 1節の呼びかけのことばに目を留めました。ここでは、「国々よ」「諸国の民よ」「地とそこに満ちているものよ」「世界とそこに生え出たすべてのものよ」と呼びかけられており、その呼びかけは「聞け」ということです。

 呼びかけの対象は国々や人間ばかりか、あらゆる被造物です。彼らは何を聞くのでしょうか。それは、主が全ての国に怒りを表しさばきをなさることです。それは、天の万象さえも朽ち果てるほどの激しいものだということが分かります。

 主はエルサレム(ユダ)の神だけではなくて、この世界のあらゆるものの神だということを知らされる呼びかけのことばであり、さばきは宇宙的な規模だということも伝えられています。

 5節以降にはエドムへの審判が述べられます。エドムはヤコブの兄エサウの子孫。イスラエルとはいわゆる親戚関係ですが、死海の南から紅海に至るまでの地域です。エドムはしばしば敵対者としてイスラエルを脅かす存在でした。

 8節の「主の復讐の日」とは、エドムが神の民イスラエルに敵対していたことに、主が復讐を加えるという意味です。イスラエルの民も、神への不従順や背信ゆえに神からの厳しいさばきを受けていましたが、ここで主は、ご自分の民に敵対し続けてきたエドムをさばくのです。

 「主の書物を調べて読め」と16節にあります。本当に起こるのだろうか、そんなひどいことが起こるはずはないという人々に、預言者は、これまで語ってきた主のことばは、すべてそのとおりになると言うのです。

 自分の思いを先に置いて、「そんなバカな」と聖書のことばを斥けてはならないのです。


一人の王の出現

2024年10月26日 | イザヤ書

イザヤ書 32章

 月に一度の家庭集会。聖書をいっしょに読むのは何よりのごちそうですが、その後で持ち寄ったものを分け合っていただく食事も楽しみ。金曜日は三種類の豆腐料理が登場しました。豆腐は当地でも少しずつ浸透していて、一般のスーパーでも扱うところがあります。固めの豆腐、柔らかめの豆腐と、変化が楽しめた昼食でした。

 この章は「見よ」から始まります。すべての人が注目すべき大きなことが起こると、人々の心を呼び覚ますためのことばです。それは「一人の王が義によって治め」るということです。

 この王は正義によって民を治め、王に仕える指導者たちも倣(なら)います。王のもとで、民は見るべきものから目をそらさず、神のことばに耳を傾けるようになります。そして人々は、物事に対して全うな見方をするようになるのです。ここに描かれている王にふさわしいのは、イザヤの時代からおよそ700年後に来られたイエス・キリストです。

 一方で9節には「安逸を貪る女たち」が登場します。以前の版では「のんきな女たち」と訳され、別の日本語訳聖書は「憂いなき女たち」と訳されていました。「のんきな」とか「憂いなき」とか聞くとのんびりと何も問題がないかのような印象ですが、ここでは、あってはならない姿として描かれています。

 ここで「安逸を貪る女たち」と言われているのは、預言者イザヤの時代のエルサレムの女性たちのことを指しているのです。あるいは、神の守りは必ずある、ここには神がおられるのだからと考えているエルサレムそのものを指しているのかもしれません。彼女たちの「思い違い」はあっという間にくつがえされます。

 15節に目が留まります。「しかし、ついに、いと高きところから私たちに霊が注がれる」ということばです。これは十字架にかかられたイエスの復活と昇天によって実現したことを指しています。 一人の王の義による支配は、聖霊に満たされたものたちが宣べ伝える福音によって広がりつつある……。

 ここにだけ、希望があるのです。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki