みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

王への戒め

2023年12月22日 | 箴言

箴言 31章

 きょうは冬至。一年でいちばん昼が短い日です。明日からは夏至に向かって少しずつ昼が長くなります。暗い日々を過ごす人々にとっては希望への一歩だと思います。日本ではこの日には「柚子湯」に入り、カボチャを食べます。私も小さい頃に、カボチャと小豆を煮た「冬至カボチャ」を食べたことを思い出します。

 箴言の終章は、「しっかりした妻」についての格言で知られています。30章のはじめにも出ていた「マサ」というのは、アブラハムの子どもの一人イシュマエルの子孫が住んでいた地方だと考えられています。

 ここには王の母がわが子に向けて、王にふさわしい歩みがどのようなものかを教えている箇所です。2節の3行に分かる並行句が心に留まります。母親がわが子を深く愛していることが伝わるとともに、「何を語ろうか」の繰り返しは、語ることが分からないのではなくて、むしろ明確であることを強調しているのです。

 最初は「……してはいけない」という戒め。ここには女たちに力を費やすことと強い酒を飲むことを戒めています。これらは、箴言でこれまでに何度も語られてきた「愚かな者」のすることでした。王はこれらのものを自分の欲するままにできる立場を得ているのですが、それゆえに自制が求められているのです。

 8−9節には王が何を行うべきかが語られています。それは弱い立場にある人々のために「口を開く」こと。政(まつりごと)はすべての人のために行うものですが、とくに「口のきけない人」「不幸な人」「苦しむ人」「貧しい人」の権利を守ることに傾注すべきだというのです。ここ数日の報道を読む時に、政治家が誰のため、誰の権利を守るために働くべきなのかを、改めて考えさせられる箇所です。

 そして、箴言の最後は「しっかりした妻」についての格言。その終わりにふさわしく「主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。現代でもイスラエルでは、安息日に家族が記念の夕食を囲む時に夫がこれらのことばによって妻に感謝を表すと聞きます。そして、私も……。


二つの願い

2023年12月21日 | 箴言

箴言 30章

 今季二度目のクリスマス市(いち)訪問。動けないほどの人ごみでなくゆったりと歩くことができました。調べてみるとハンガリーが発祥だそうです。空腹だったこともあり、外れなしの美味しさでした。

 これまで、2行で一つ、あるいは4行で一つの格言が並んでいた箴言の中で、30章はなぜか誰かがそこにいるかのように読むことができます。「マサの人アグル」とありますが、アグルという人名はこの箇所以外、聖書には出てきません。「マサ」はアラビア半島のイシュマエルの子孫の地だと考える人もいます。ということは、アグルはイスラエル人ではなく、いわゆる異邦人としてソロモン王に仕えていたのかもしれません。

 7−9節の願いの心に心を留めました。そこには栄誉や富みや力を求めるのではなくて、つつましい願い、望みが打ち明けられています。「あなたにお願いします」と異邦人のアグルが神を「あなた」と呼ベル幸いを覚えます。

 一つ目はことばにおいて神を、そして隣人を悲しませることがないようにとの願いです。私は、ことばに繋がる働きをさせていただいていますが、アグルのとおりに祈ることを学びました。

 二つ目は、「貧しさも富も私に与えないでくださるように」との願いです。「衣食があれば、それで満足すべきです」とパウロはテモテに書いています(Ⅰテモテ6章8節)。あれもこれもと、神に求めすぎているのではないだろうかと、心探られる祈りのことばです。


叱責の必要

2023年12月20日 | 箴言

箴言 29章

 「みことばの光」3月号の制作を終えようとしています。今回は「年末年始特別スケジュール」ということで、印刷会社への送稿がいつもよりも10日ほど早いので「前へ、前へ」と手順を踏んだつもりでしたが、送ったはずの大切なメールが届いていないことが分かり、あわててお願いしました。

 「みことばの光」は本章を「指導者と民」という視点で説いています。またこの章には、子どもを育てるということについても、いくつかの格言が置かれています。

 15節は、子どもを叱責するのは肝要だと教えています。「放っておかれた子は母に恥を見させる」と続きます。これと関連することばとして、13章24節の「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる」、19章18節には「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺そうとまで考えてはならない」とあります。現代では虐待として退けられてしまう厳しい格言です。

 しかし、子を戒めることは時代を超えて必要だと思います。17節には「あなたの子を戒めよ」とあります。しかしそれは、親の感情のままに、または親の小さく狭い価値観によって戒め叱責するのではなく、神のことばに基づいてのことです。ついでに、「ほめて育てる」ということばも、誰の基準でほめるのかということをよく考える必要があると思います。

 そう考えてみると、18節の格言は次の世代を育てることにも適用できます。「幻」とはいわゆる夢とかビジョンとかいうものではなく、聖書脚注には別訳として「預言」とありますので、神のことばのこと。

 育てる側に聖書が必要なだけでなく、次の世代が自分で聖書を読み発見する喜びを見いだすために、機会を用意する責任を覚えます。


愛のある叱責

2023年12月18日 | 箴言

箴言 27章

 土曜日はストラスブールで、そして日曜日はフランクフルトでクリスマス礼拝を行いました。二つの礼拝に共通するのは「子どもたち」。子どもたちが牧師が話すクリスマスメッセージを一生懸命聞いてくださいました。美味しいものもいただくことができたのも嬉しかったのですが、やはり子どもたちにはかないません。

 27章は人とのつながりについてのことばが目に留まります。

 1節が良き友、良き隣人を持つべき動機になっていると思いました。確かに私たちは今日という一日に何が起こるのかを知りません。予測はできます。でも確かな見通しを立てることはできません。だからこそ、人とのつながりは大切なのです。

 2節を読んで、ずいぶん昔に流行った「自分をほめたやりたい」ということばを思い出しました。人にほめられたくて何かをするのではないのですが、自分の態度や行動をよく見てくれて正しく評価してくれる友がいる人は幸せだと思います。そして、私自身も誰かの行いについて素直に喜び、評価する者でありたいと考えました。

 5−6節も人とのつながりについての箴言。この二つの箴言はペアになっているようです。自分を本気で叱ってくれる人には愛があると、理屈では分かるのですが、いざ自分がそのようにされたらそうはなかなか思えません。私にとっては忘れられない叱責があります。今になってその叱責は愛に基づくものだったとよく分かります。

 それでは、自分は本気で人を責めることができるかと問われると即答はできません。まさに、愛を問われるのです。


ことばの罠

2023年12月16日 | 箴言

箴言 26章

 燃料を入れ、タイヤの空気圧を調整して、やや長距離のドライブに備えました。燃料費は、以前よりも少し下がった感がします。

 きょうの「みことばの光」のタイトルは「イエスが憎まれた者たち」。そして、愚か者、怠け者、陰口をたたく者が登場し、それらをイエスが憎まれたと説いています。

 4−5節に目が留まります。この二つのことばは矛盾しているように思えます。4節では「愚か者には、その愚かさに合わせて答えるな」とあり、5節では「愚か者には、その愚かさに合わせて答えよ」とあります。相反するような格言が並ぶのは、それほど愚か者に答えるのは難しいということを伝えようとしているのかもしれません。しかしそれは、自分が知恵ある者だと高ぶるということではありません。

 9節では、愚かな者が用いる箴言は危ないという意味です。人は自分の行為を正当化するために、あらゆる手段を用いる、箴言さえも用います。愚か者とは知識や教養にかけているという意味ではありません。勉強ができないということではありません。知恵に長(た)けています。知識もあります。しかしそれらは、結果として悪を行うことに用いられます。

 本章後半には、ことばの罠についての警告が続きます。陰口、声を和らげる語りかけ、憎しみを覆い隠す舌…。それらは誰かを陥れ、だめにするためのものです。その場にいない人の話題は盛り上がるもの。しかし、そこで事実が語られることは少ないのです。その結果人を傷つけ、場合に寄っては死に追いやります。さらに、陰口を言う者が滅びヘと陥ってしまうのです。


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