みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の日が来る

2017年03月28日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 14章

 春の陽射しの中、森の中を歩きました。地面には花が咲き、木々は芽吹き、鳥たちがさえずっています。その中を遠慮気味に歩かなければ…というような気持ちになりました。

 「みことばの光」が書くように、ゼカリヤ書の終章はエルサレムの敗北から始まります。驚くことに、エルサレムはすべての国々によって攻められるとあります。さらに、それを主がなさるというのにもっと驚かされます。ここは、ヨハネの黙示録11章にある都が獣によって踏みにじられるという場面と重なります。しかし、そこに主が出て来てその国々と戦われるのです。

 興味深いのは、主の足がエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立つと、山が二つに裂けて、東西に延びる大きな谷ができるという預言です。「みことばの光」はこのことについて、「だれもが新しいエルサレムに近づくことができるようになったことを象徴する」と書きますが、5節を読みますと、エルサレムから人々がこの谷を通って逃れられるためにということだと考えられます。

 主がおいでになるまでには、苦難を通され悲惨な出来事も経験するけれども、それでも主に信頼することを促しているのではないでしょうか。5節の「私の神、主が来られる」ということばは、すべてを変えることば。この日を待ち望んでいるのかと自分に問うのです。

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罪と汚れをきよめる泉

2017年03月27日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 13章

 日曜日は、ケルンにある日本語教会を訪ねました。いつものように、iPhoneに入れた地図アプリをナビゲーションとして便利に用いましたが、詰めの所で道を間違え、ちょっと遠回り。ナビは間違っていなかったのですが、ナビを読み取る私がミスをしました。聖書を読み違える自分の姿が重なりました。

 1節の「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とのことばから思うのは、エゼキエル書47章に描かれている情景です。聖書をお持ちの方は、エゼキエル書47章を開いてみてください。エゼキエルは、神殿の敷居の下から東の方へ水が流れ出ているのを見ます。水かさは足首からひざ、そして腰の深さにまで増し、やがて渡ることのできないほどの川になり、やがてアラバに下り海に入ります。アラバというのは、ヨルダン川が流れる地を含むパレスチナを北から南に縦断する低地のことです。ですから、エゼキエル書47章8節の「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る」ということばの「海」とは死海を指しています。

 驚くことに、「海に注ぎ込むとそこの水は良くなり、…あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる」とまで言われています。今の死海は、浮遊体験をするには大変良いのですが、高い塩分濃度ゆえに一匹の魚も生息しません。けれども、エゼキエル書47章にはさらに驚くようなことが書いてあります。「漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。」死海で網を引くという、信じ難いことが起こるのだと言われるのです。

 けれども、それにも増して信じ難いのは、人間の罪と汚れがきよめられるということではないだろうか、と思い巡らすのです。「みことばの光」が引用した聖句をここにも記します。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ヨハネの手紙第一 1章7節

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がまんできなくなり

2017年03月25日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 11章

 旧約聖書に登場する預言者は、時には神がお命じになることをしなければなりません。預言者はことばを語ることによってだけでなく、その身をもって神のことばを人々に伝えたのです。

 ゼカリヤは主から、「ほふるための羊の群れ」を養うようにと命じられます。悪い牧者に飼われた後で、やがて売られ、ほふられる羊を飼うのです。牧者の努力が失敗することが初めから明らかだというのは、どうにもやり切れません。案の定、牧者ゼカリヤは彼ら(羊たち)にがまんできなくなり、彼らの心もゼカリヤをいやがったとあります。ゼカリヤはまず「慈愛の杖」を折り、次に「結合の杖」も折ってしまいます。

 「がまんできなくなり」に目が留まります。牧者として羊を飼ったゼカリヤの思いが強く表れることばです。それほど羊たちは、牧者を受け入れようとしなかったのです。

 ゼカリヤ書後半はメシヤについての預言だと書きました。「この方はご自分のくにに来たのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネの福音書1章11節)ということばを覚えますし、ゼカリヤが羊の商人からもらった銀30シェケルは、イエスを裏切ったユダが受け取った銀貨30枚に通じると読めます。

 けれども、主イエスは羊たちのためにご自分のいのちをお捨てになるのです。

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主の名によって歩き回る

2017年03月24日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 10章

 きのうはコートを脱いでの外出でした。陽射しもだいぶ長くなり、日の入りは午後6時43分。これから夏至まではどんどんと日の入りの時間が遅くなります。歩き回るのに良い季節になりました。

 10章には、イスラエルの民を主が回復し強めるという主の約束が記されます。ここにはユダの名前ばかりでなく、「ヨセフの家」「エフライム」という名前もありますので、イスラエルの民全体が主によって強くされることが語られています。

 この章のどこにメシヤを認めることができるでしょうか。4節の「この群れから…」ということばに目を留めましょう。「この群れ」とは前の節を読むと「ユダの家」のこと。ユダの家から、「かしら石」「鉄のくい」「いくさ弓」が出て来るというのです。「かしら石」とは、聖書辞典によると「建築の最後を飾って建物全体を一つに結び合わせる大切な石のこと」だとあります。神殿の建築中に一つの石が捨てられたという言い伝えがあり、それが新約聖書でキリストを指すとされました。

 励ましを得たのは、「彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る」という12節のことばです。これは、メシヤによって回復されるイスラエルの民の様子を描くものですが、既にそれは、イエスをキリストと信じる者によって実現していると考えることができます。前にも書きましたが、この3月で二人の方が日本に帰国します。ドイツにある他の日本語教会でも同じようなことが今月に起こっています。寂しさを覚えながらも、帰国する人々が祖国で、そしてまた違う国で「主の名によって歩き回る」のだと思うならば、喜びが湧くのです。

 3−4月は日本では移動の時期。主にある人々が12節の約束のごとくになるようにと祈ります。

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望みを持つ捕らわれ人

2017年03月23日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 9章

 本章から、ゼカリヤ書の後半が始まります。「みことばの光」の「ゼカリヤ書9−14章を読む前に」には、ここには、ゼカリヤの時代から先に起こることについての預言が記されており、その中心はメシヤ(救い主)が来るということについてだとあります。

 9節の預言は、主イエスのエルサレム入城の際に実現しました。旧約聖書の中に、新約聖書で馴染みのある(?)ことばが出てくると、ホッとするというか親しみを覚えるのではないでしょうか。

 12節の「望みを持つ捕らわれ人」という不思議なことばに目が留まりました。「捕らわれ人」というと、ゼカリヤ書から思うのは、捕らわれ人として多くの民がバビロンに強制的に移されたという出来事を思うことでしょう。しかし、神は彼ら(その子どもたち)をそのままにはしておかれませんでした。ゼカリヤ書は帰還した民に神がゼカリヤによってお語りになったことばによって成っています。

 人は何によって捕らわれているのだろうか、考えてみました。実際に何らかの大きな束縛の中に置かれている人もいます。また、ある人々は自分が何かに捕らわれているという自覚を持ちません。もし、私たちが創造主である神との結びつきを持ち得ないのだとしたら、だれもが罪と死によって捕らわれているのだと言えます。けれども、望みがあるのです。その望みとは自分の側にあるのではなく、「雌ろばの子の子ろばに」乗って、エルサレムにお入りになった「王」お一人にかかっているのです。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki