みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

新しい時の始まり

2022年03月28日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 14章

 土曜日から月曜日までスイスを訪ねています。チューリッヒにある日本語教会の近くにはたくさんの桜が植えられており、礼拝前と後に「お花見」に行きました。満開の桜の下で記念撮影。

 ゼカリヤ書の終章には、主の日に起こるさまざまなことが描かれています。改めてこの書を振り返ってみますと、「その日」ということばがずっと並んでいたことに気づきます。「その日」「主の日」とはいつなのか、それは、ゼカリヤの時代でもなく、その前でもなく、イエスがこの世界に来られた頃でもなく、私たちが考える歴史上のあの時でもこの時でもありません。まだ来てはいないけれども、間違いなく訪れる時を指しています。それは、新約聖書に約束されているイエス・キリストが再びおいでになる時であり、それによってさまざまな出来事が起こる日のことです。

 その日、エルサレムはすべての国々に攻撃されます。エルサレムはゼカリヤの時代まですでに何度か包囲され攻撃されてきましたし、紀元70年にはローマ軍の激しい攻撃にさらされました。しかしここにあるのは、さらに未来に起こることです。主の足がオリーブ山の上に立つことによって山が二つに裂けて東西に大きな谷ができるなどの大きな変動が生じます。主である神が聖なる者たちを伴っておいでになります。その日には光も闇もなくなります。彼らの上を照らすのは太陽や月ではなく、神ご自身です。

 8―15節で描かれるのはエルサレムの祝福。これはメシアがこの世界においでになる時に実現されるもの。エルサレムからいのちの水が流れ出ること、エルサレムに諸国の民が主を礼拝するために集まることなどが語られます。一方で、エルサレムを攻撃する者たちの間は疫病に悩まされ、混乱も生じます。

 この世界は破滅に向かってまっしぐら……などと聖書は語りません。やがて来る「その日」は新しい時の始まりであり、世界はそこに向かって進んでいるのです。


持つべき嘆き

2022年03月26日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 12章

 月に一度の家庭での聖書の会。いつも一緒に聖書を読んだ後で主催者の方が用意してくださるお昼と、参加者が少しずつ持ち寄るものとをいただくのが楽しみなのですが、昨日は予定があって中座。残念でした。次回の楽しみといたしましょう。

 この章には、エルサレムが神によって劇的な救いにあずかること、「恵みと嘆願の霊」が注がれることとが語られています。ここに記されていることの一部は、すでにイスラエルの歴史において見られたことでもあるのですが、完全な成就はやがての時を待たなければならないのでしょう。

 力のない者、それどころではなく叩きつぶされそうにまでなっている者たちを神が助けるならば、彼らは守られ助けられるのです。8節の「その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる」ということばが目に留まりました。ローマ人への手紙8章31節の「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」というパウロのことばを思います。

 この章の後半には「嘆く」「泣く」ということばが連なります。しかも、激しく…。ここにある嘆きは、人が神の前に持つべき嘆き、涙です。なぜならこれらは、自分たちが神に背いていること、神を突き刺したことを悔い改めてのものだからです。世界は今、大きな嘆きの中にいます。しかしそれが「あの人々はかわいそうだ」「世の中はひどい」「何度ひどい仕打ちだ」という嘆きでとどまるのではなく、「主よ、わたしの罪を赦してください」という祈りに繋がるものでありたいと願うのです。

 「ひとよ、汝(な)が罪の 大いなるをなげき 悔いてなみだせよ…」(讃美歌21 294より)


二人の牧者

2022年03月25日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 11章

 ここは、複雑で何を伝えようとしているのかが分かりにくい箇所です。1−3節は内容的には前章に続くものだと思います。

 預言者は、神のことばを人々に伝えるために、さまざまなことをさせられることがあります。ここで預言者ゼカリヤは羊を飼えと命じられています。飼うのは屠られる羊の群れ。この羊の群れはやがて売られて殺されます。売る側の商人は潤い、買う側は羊を屠っても責めを負うことはありません。双方は自分たちの利益のために羊を売り買いしているだけなのです。ここでの羊は、力ある者たちによって良いようにされる民のあわれな姿を現しています。

 それでもゼカリヤは、「慈愛」と「結合」という二つの杖によって羊を飼うのですが、我慢も極限に達し「慈愛」と名づけた杖を折ります。8節のことばに目が留まります。ゼカリヤが退けた三人の牧者とは、ユダの民のこれまでの指導者だった王と祭司、そして預言者のことだと考えられます。ということは、ゼカリヤが任じられている羊飼いがこれらの務めを一人で行うということをこのことばは表しているのかもしれません。

 まことの王であり、大祭司であり、そして神のことばで羊飼いとはイエス・キリストです。ゼカリヤはここでやがておいでになるまことの羊飼いを「演じて」いるのです。羊を飼うのを止めたゼカリヤは、羊飼いとしての自分に賃金を払うようにと求めます。値積もりされた額は銀30シェケル。羊飼いゼカリヤの価値でした。これは、イスカリオテのユダがイエスを銀貨30枚で売ったことへと通じます。

 15節を読むと、今度はゼカリヤは愚かな牧者を「演じる」ようにと命じられます。これは、まことの牧者を退けるならば、羊を滅ぼす愚かな牧者が現われて羊たちが犠牲になるという預言です。愚かな指導者は、群れを滅ぼしてしまうのです。


これほどまでしてくださる羊飼い

2022年03月24日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 10章

 外に出ても寒さを感じなくなりました。夜7時を過ぎても空は真っ暗ではありません。次の日曜日からは夏時間。良い季節です。こんな時ですからなおさらのこと、空を見上げ、天のお父さまを覚えます。

 この章には、神がユダとイスラエルを回復される様子が描かれています。

 1−2節では、誰を求め誰に尋ねて人生を歩むかについての問いかけがなされています。「主に雨を求めよ」ということばは、具体的な命令です。漠然とではなく、雨を降らせてください。実りのためにどうしても必要なのですという切実な願いは、占い師にではなく主にこそ求めるべきなのです。目が見えないバルテマイに、「わたしになにをしてほしいですのか」と尋ねた、主イエスのことばを思いました。→マルコの福音書10章51節

 3節以降には、頼りにならない羊飼いたちと、頼りがいのあるまことの羊飼いなる主が並んでいます。「羊飼い」はゼカリヤ書後半のキーワードです。羊飼いなる主は、ユダとエフライムに力を与えて勇士のようにし戦いに勝利されます。イエスはまことの羊飼いとしてキリスト者をも、勇士として見えない敵との戦いに勝利するために導かれるのだと思ったときに、心に大きな喜びが湧いてきます。

 まことの羊飼いは、ご自分の羊たちのためにこれほどまでしてくださるのです。


ろばの子に乗る王

2022年03月23日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 9章

 木々の花も次々に開いて、春到来です。ワックス付の「プレミアム洗車」をしたばかりの自動車が、サハラからの黄砂で見るも無残な姿に…。給油のついでに洗車しました。いつもならそれほど待たずにできるのに、洗車を待つ何台もの自動車がすでに並んでいました。考えることは同じなのですね。待ちに待って、ようやくきれいになりました。

 ゼカリヤ書は、8章までが神殿の再建工事中に語られ、9章以降は神殿完成後に語られたものと考えられています。課題になっていた「大プロジェクト」をやり遂げた後の人々はどんな思いだったのだろうかと想像しながらここを読みました。

 9章の初めの部分には、イスラエルの周辺の国々の名前が並びます。ハデラクやダマスコはイスラエルの北東に、ハマテは北に、そしてツロやシドンは北西の海岸沿いの交易都市です。さらに、アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデは、南西のペリシテ人の諸都市。これらの周辺国家は、イスラエルにとって常に緊張関係にありました。攻め込まれて戦いを交える時もあれば、友好的な関係の時もありました。神はそれらの国々にさばきを下すと語られるのです。そしてここで語られていることは、ゼカリヤの時代から200年近く後、マケドニアのアレクサンドロス大王によって果たされるのです。

 しかし、メシアはアレクサンドロス大王ではありません。彼は当時の世界制覇を成し遂げるとまもなく世界から消えてしまいます。真にイスラエルに、エルサレムに平和をもたらす勝利の王は、子ろばに乗って入場するのです。新約聖書の読者は、ここに描かれている義なる、勝利の王がナザレ人イエスだということを知ります。不思議な預言です。

 世界の制覇をもくろむ王たちや権力者たちは、戦車や軍馬、そして弓を増強します。現代ならどのような兵器でしょうか。しかし、ろばの子に乗ってエルサレムに入城する王はそれらを絶えさせます。そしてこの方は、もう一度この世界に王の王、主の主としておいでになります。

 「主よ、来てください。」


2011-2024 © Hiroshi Yabuki