ゼカリヤ書 14章
土曜日から月曜日までスイスを訪ねています。チューリッヒにある日本語教会の近くにはたくさんの桜が植えられており、礼拝前と後に「お花見」に行きました。満開の桜の下で記念撮影。
ゼカリヤ書の終章には、主の日に起こるさまざまなことが描かれています。改めてこの書を振り返ってみますと、「その日」ということばがずっと並んでいたことに気づきます。「その日」「主の日」とはいつなのか、それは、ゼカリヤの時代でもなく、その前でもなく、イエスがこの世界に来られた頃でもなく、私たちが考える歴史上のあの時でもこの時でもありません。まだ来てはいないけれども、間違いなく訪れる時を指しています。それは、新約聖書に約束されているイエス・キリストが再びおいでになる時であり、それによってさまざまな出来事が起こる日のことです。
その日、エルサレムはすべての国々に攻撃されます。エルサレムはゼカリヤの時代まですでに何度か包囲され攻撃されてきましたし、紀元70年にはローマ軍の激しい攻撃にさらされました。しかしここにあるのは、さらに未来に起こることです。主の足がオリーブ山の上に立つことによって山が二つに裂けて東西に大きな谷ができるなどの大きな変動が生じます。主である神が聖なる者たちを伴っておいでになります。その日には光も闇もなくなります。彼らの上を照らすのは太陽や月ではなく、神ご自身です。
8―15節で描かれるのはエルサレムの祝福。これはメシアがこの世界においでになる時に実現されるもの。エルサレムからいのちの水が流れ出ること、エルサレムに諸国の民が主を礼拝するために集まることなどが語られます。一方で、エルサレムを攻撃する者たちの間は疫病に悩まされ、混乱も生じます。
この世界は破滅に向かってまっしぐら……などと聖書は語りません。やがて来る「その日」は新しい時の始まりであり、世界はそこに向かって進んでいるのです。