みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

確かに知っている

2018年02月28日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 5章13−21節

 この手紙の終わりの部分です。

 このブログでも何度か触れてきましたが、この手紙は、グノーシス主義に影響された偽りの教師たちによって揺さぶられていた教会に、人としてこの世界に来られ、十字架の上で血を流してすべての人の罪の贖いを成し遂げ、三日目に体が復活して天に上って行かれたイエスを信じる信仰を持ち続けるようにと勧めています。

 ヨハネはこの手紙の終わりに、人としておいでになった神の御子イエスを信じる者が確かに知っていることを一つ一つ挙げていきます。きょうの「みことばの光」には、「偽りの教えは、彼らの確信を曇らせたようである」と書いてあります。イエスはほんとうは人間としての体を持つことはなかったとの間違った教えによって影響された人々は、自分たちが何を知っているかについて、あやふやになってしまっていたようなのです。

 ヨハネは、この手紙を書いた理由を「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、…よくわからせるため」だと言っていますいます。ここから始まって彼は、神はみこころに適う願いを聞いてくださると確信していること、とりなしの祈りが答えられること、神は神によって生まれた者を守ってくださること、イエスを信じる者が御子イエスのうちにいて守られていることなどを、ぼんやりとしていたものをはっきりと見せるようにして書いていきます。

 イエスを信じて神の子どもとされるという約束は、信じる者から見たらあっけにとられるほど単純明快なことです。それはどこかに、もっと深いものがなければならないのでは…と揺さぶられやすいものをはらんでいのかもしれません。揺さぶられないで、イエスを信じて歩めとのヨハネのことばが迫ってきます。


神によって生まれた者

2018年02月27日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 5章1−12節

 ヨハネの手紙第一は終章。この箇所にはまず、「神によって生まれた者」ということばが目を惹きます。

 まず、どのようにして神によって生まれるのかというと、イエスがキリストであると信じる者はだれでも。とあります。「だれでも」とはよく考えると驚くようなことです。一人の例外もなくというのですから…。

 次に、神によって生まれた人の歩みが述べられます。一つには神を愛し、兄弟を愛するということです。神がキリストによってその人をご自分の子どもとされたのですから、神の子どもであるその人は、生んでくださった神を愛し、同じように生まれた兄弟を愛するのは道理だというのです。

 二つ目は世に勝つ者だということです。この場合「世」というのは、神を離れ神に敵対するあらゆるものを指して使われています。世は神の子どもたちに敵対するのですが、決して勝利することはできません。なぜならば、キリストが十字架にかかり復活されたことによって、この世を支配する者に勝利されたからです。

 ヨハネはここで、キリストがこの世においでになって何をなさったのかを具体的に書いています。それは、当時の教会を混乱させたグノーシス主義の教えへの明確な反論です。つまり、キリストは確かにこの世界に肉体をもっておいでになり、水のバプテスマをお受けになり、十字架の上で血を流して死んで復活されたのは、幻ではないと言っているのです。

 か細い声でイエスをキリストと信じますと言った者の声を神はお聞きになって、ご自分の子どもとしてくださいます。驚くようなことです。


神の愛が全うされる

2018年02月26日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 4章13-21節

 礼拝からの帰り道、美しい夕焼けを眺めました。刻一刻と変わる色模様に目を奪われそうになりましたが、運転中なのでがまん。夕方6時を過ぎでもまだ西の空は明るいという頃になってきました。これからはどんどん昼が長くなります。

 13-16節では、イエスを神の御子だと告白する人は神のうちにとどまり、神もまたその人のうちにとどまるということが強調されています。さらっと言ってのけているように思えるこのことばを立ち止って考えてみますと、驚くようなことです。天地の創造主、全能の神がイエスを信じる人のうちにとどまる、内住するというのですから…。そんなすごいことが自分のうちに起こっているのをどのようにして確認できるかというと、それは私たちの側の理性や感情によってではなくて、聖霊によってなのだと言います。目には見えない証印が押されていることを、聖霊がわからせてくださるのです。

 17-21節では、神の愛が私たちにあって全うされたとの大胆なことばが心に留まります。このことはすでに12節でも言われています。「愛が私たちにあって全うされる」と聞くと、ほんとうにそうなのだろうかとの思いが一方で湧いてきます。これまでも、神が自分のことを愛しておられることがわかったら、人は神を愛し、兄弟を愛するのだと、ヨハネは書いてきました。

 この箇所には、愛について「全うされる」「全き愛」「愛において全きものとなる」ということばが目につきます。ヨハネは、私たちが互いに愛し合うことによってそのようになると説くのです。

 神の愛を見失った、いや受け入れない社会は、人の揚げ足を取ったり攻撃をしたりすることが日常のこととなりました。誰かの失敗が「待ってました」とばかり、拡散されていくような時代です。そのような中で、神の愛が恐れや憎しみを信じる者のうちから締め出すというのは福音です。


兄弟を愛する

2018年02月24日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 3章13−24節

 耳かきでいじりすぎて耳が痛くなったので、お医者さんは私に、「耳の垢は何もしなくても自然に取れるのでいじってはいけない。あなたの耳が汚れているので、耳の掃除をするので予約をするように」と話してくださいました。そうなのです。わかってはいるのですが、日本の耳かきで耳掃除をすると気持ちがよくて、つい…。

 3章後半でヨハネは、兄弟を愛するようにと繰り返し勧めています。11節には互いに愛し合うべきだと、14節には兄弟を愛しているので死からいのちに移っていることを知っていると書き、16節ではキリストがご自分のいのちを捨ててくださったから兄弟のためにいのちを捨てるべきとあります。

 さらに18節には、行ないと真実をもった愛するように、そして23節には愛することはキリストの命令、神の命令だと書いているのです。

 このように勧められている愛とは、何となくフンワカとした感情や気分ではなくて、いのちを張ってのものなのです。何度も書いてきましたが、この手紙の読者たちが直面している誤った教えの特徴は、霊と肉、光と闇とを二元的に捉(とら)えることにあります。キリストも実は本当に人間の姿を取っては来ない、実体のないものだと説いています。しかしヨハネはここでも、そうではない! キリストは私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったのだと訴えています。からだをもって、その身体を張って私たちを愛してくださったのだから、私たち互いはそのように愛し合うべきだというのです。

 きょうの「みことばの光」には、兄弟を愛すること、兄弟のために犠牲を払うことについて、小さなことから始めることができると書いています。この挑戦に少しでも答える一日でありたい、です。


神の子ども、キリストに似た者

2018年02月23日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 3章1−12節

 ガソリン不足のランプがついたので、スタンドに。久しぶりに洗車もしました。冬の間はどうせ汚れるだろうと洗車を見合わせてい人も多いようで、周りを走っている自動車も結構汚れています。私も同じようにしていましたが、思い切って! ピカピカになりました。でも、こんな時に限って天気が悪くなって逆戻りになったりするのです。

 3章前半のキーワードは「神の子ども」でしょうか。きょうの箇所にも1、2、10節で用いられています。ヨハネは、読者たちの今の立場がどのようなものかに注意を向けようとしています。それは、神の愛が注がれて私たちが神の子どもにされたということです。「事実、…神の子どもです」とか「今すでに神の子どもです」ということばからは、疑いを差し挟ませない強い調子が伝わってきます。教会に入り込んできた誤った教えの風にさらされている読者たちに、彼らが今どのようなものであるのかを確認させているのです。

 「神の子ども」だという動かない事実の上に立って、さらにヨハネは、二つ目のキーワードを用いてどのように生き、歩むべきかを明らかにします。そのキーワードとは「キリストに似る」です。キリストが現れた時にキリストに似る者となる、キリストが清い方であるように自分を清くする、キリストに罪がなかったように罪を犯さない、キリストが正しい方であるように正し人として歩む、キリストが愛したように愛する、と勧めます。

 「あなたはだれか」「私はだれなのだろう」との問いに答えられるかどうかは、どのように歩むかということの前に確認しなければならない大切なこと。きょうの「みことばの光」に思い巡らすいくつかのことが並んでいます。それらは、私が「神の子」となり「神の子」であるために、三位一体の神が力を注いでくださった一つ一つのことなのだということに気づかされます。

写真*クルージュ=ナポカ(ルーマニア)の町並み


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