みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

信じる・愛する・従う

2023年10月28日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 5章1−12節

 月に一度の家庭集会。昨日はルカの福音書8章を一緒に読みました。そして持ち寄ったもので昼食。普段はお昼を抜いているのですが、この日は別だと、美味しくいただきました。

 これまでヨハネの手紙第一を読んできて、同じようなことをヨハネが繰り返し書いているので分かりにくいという感想を持つ方もおられるかもしれません。確かに、ヨハネは「信じること」「愛すること」そして「従うこと」の三つを繰り返し述べています。

 それは、人が光なる神とイエス・キリストによって交わりを持つようになったのだとしたら、どのように歩むのかを伝えようとしている、それが「信じる」「愛する」「従う」です。1節に「信じる」、4節に「信仰」があります。「愛する」は1、2、3節に、「従う」は2、3節に「命令を守る」ということばで表されています。そして、この三つのことはどれもが非常に強く結びついているということも分かります。

 イエスを信じる者が神を、そして神が愛された人々を愛するのは切り離すことができないこと、イエスを信じる者が神の命令を守ることは当たり前のこと。「私はイエスを信じるけれども、神を愛してはいませんし、神に従いません」ということはありえないし、「神を愛していますが、イエスは信じません」ということもありません。「神の命令を守りますが、神を愛してはいません」もないのです。

 何度も書いてきましたが、その三つの営み・歩みは、当時教会を揺さぶっていた偽りの教えと明らかに違うものでした。三つの密接な関係は、私たちの歩みにも、なくてならないもの……。


とどまっているという事実   

2023年10月27日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 4章13−21節

 スーパーにはすでにクリスマスのお菓子が並んでいますが、教会でも準備がスタートしました(よく考えてみたら、順番が逆のような気がしてきました!) 今年も12月のクリスマス礼拝の後、子どもたちによる朗読劇をします。次の日曜日に説明会があるのですが、19名のお友だちがエントリーしてくれました。

 ヨハネの手紙は「愛の手紙」とも呼ばれます。「神は愛なり」はもともとこの手紙の中に置かれたものです。13節から16節には「とどまる」ということばが繰り返されています。しかもここには、私たちが神のうちにとどまり、神が私たちのうちにとどまっているという驚くようなことばがあります。それは、イエスをキリストだと信じる一人一人のうちに生きておられる、聖霊によるものです。

 天と地を創造された神と私とが互いにとどまり合うというのです。「そうなんだ」とやり過ごすことのできないほどの重いことばです。「神は愛」なのですから、神のうちにとどまっているということは愛のうちにとどまっているというのは、もっともなことなのです。

 毎日、私たちはいろいろな人や組織などとの関係の中に歩んできます。その中には「良い関係」もあればそうでないものもあります。できれば何かとの関係を切りたいと悩んでいる人もいるのかもしれません。そのようなとき、何よりも誰よりも神との関係に、愛のうちにとどまっているという事実を知ることの大切さを思います。

 それはさばきの日にあっても恐れることなく、また目に見える兄弟との関係にも通じます。「神を愛する者は兄弟も愛すべき」と……。


人となって来られたキリスト

2023年10月26日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 4章1−12節

 どんよりとした雨の水曜日。雲の切れ目を待って外に出かけようとしていましたが、かないませんでした。数日、このような天候が続くようです。でも、きょうは外出したいと思います。

 ヨハネの手紙を読んでいるいくつかの教会は、この時大きな危機に直面していました。偽預言者の問題です。ここでヨハネは、偽者か本物か、霊を見分けるしるしを示しています。「人となって来られたイエス・キリストを告白する霊」が神からのものだというものです。「人となって来られた」ということばは、それを否定する教えが教会に入り込んでいたということです。

 この手紙の書き出しを思い出します。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」と、ヨハネはイエス・キリストを紹介しています。それは、神の御子イエスが人となっておいでになったことを否定する教えに対する強力な反論なのです。大切なのは「イエス・キリストを信じます」ではなく、イエス・キリストは人となって(直訳は「肉をもって」)来られたと告白することなのです。

 7節以降は、「互いに愛し合いましょう」との勧めが美しい詩として描かれています。その根拠は神は愛だから、そして神は御子を宥めのささげ物として遣わしてくださることによって、その愛をこの世界に明らかにされた、それによっていのちを賜った私たちは互いに愛し合う必然があと歌われているのです。当時教会に侵入していたグノーシスは、神は霊であり光であるとは教えましたが、神は愛だとは教えませんでした。だからこそ、教会が互いに愛し合うことは、その誤った教えから教会を守ることでもありました。具体的にそれは何か……、との問いかけを、ここからいただきたいと思います。

 


自分の心が責めたとしても

2023年10月25日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 3章11−24節

 時間の合間を縫って取り組んでいる「日ごとに」(聖書同盟刊)の改訂版の制作が大詰めになりました。テーマに沿って毎日読むように組まれているので、聖書を横断的に読むための良い手引きです。

 ヨハネは「互いに愛し合うべきである」とここでも書きます。それは教会にとってはまさしく初めから聞いている使信。しかし、聞くのと行うとでは大違いです。ヨハネはここで、カインを例にあげます。極端なようにも思えますが、人と人との間には憎しみやねたみが厳然とあるということを改めて考えさせる例です。「カインはひどいことをした」とここを読むと思うことでしょうが、その矛先(ほこさき)は他ならぬ自分に向けられているということに、私たちは気づく必要があります。

 ヨハネはこのことばを、教会に宛てて書いています。主にある兄弟姉妹の間にカインのような問題が横たわっていたのです。同じ教会で歩むという交わりを与えられている者たちが、考え方ややり方の違いが気になって仕方がないなどということは、度々起こります。そのような者たちの心に、14節は迫ります。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」とのことばです。

 「愛」とは自分が勝手に描くものでないということも、16節から考えさせられます。自分で決める愛ではなく、教会が決める範囲でもなく、キリストが示したこと、なさったことこそ、愛なのです。

 20節の「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます」ということばに目が留まります。この場合、自分の心が責めるとはどのようなことなのでしょう。自分の内側の声に責められることなくという意味でしょう。「神は私たちの心よりも大きな方」ということばに励まされて、自分を見、主にある兄弟を見る者でありたいと、心から願います。


キリストに倣(なら)う

2023年10月24日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 3章1−10節

 月曜日の夕方、スーパーで買い物をして近くのバス停でバスを待っていましたら、男の子を連れた女性が「あなた、銀行のカードを落とさなかった? 日本人のだとレジの人が言っていたので、きっとあなたたちではないの?」と声をかけてくれました。財布を確認すると、確かにありません。急いで戻って行こうとすると、男の子が「ぼくが見つけたんだ!」と大きな声で言います。「ありがとう!」とお礼を言って、スーパーに戻り、無事にカードを受け取ることができました。ありがとうございます!

 ヨハネはこの手紙ですでに、「神のうちにとどまっていると言う人は、……イエスが歩まれたように歩まなければな」らないと書いています。ここでは、神の子であるクリスチャンへの約束と、神の子の生き方を明らかにしています。

 神の子への素晴らしい約束、それは2節にあります。キリストが現れたときに、キリストに似た者となるということです。今の自分を見るならば、それにはるかに遠いことに気づかされるのですが、希望がここにあります。そして、「キリストをありのままに見る」ということばに目が留まります。その日がやってくるのです。そして、この間違いのない希望は私たちの毎日を支えます。

 4節以降には神の子どもと、悪魔の子どもとが対比されます。ここでのヨハネのことばの背景には、この時教会を脅かしていた間違った教えがあります。偽教師たちは自分たちには特別な神についての知識があると自慢し、教会を揺さぶっていました。ヨハネは、そのように教えている人々がどのような歩みをしているのかを注意深く見るようにと、書いています。行い、実によって判断せよと……。


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