みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

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2017年05月13日 | エズラ記

エズラ記 10章18−44節

 エズラ記は外国の女をめとった人々のリストで終わります。唐突な終わり方という印象がありますが、それだけに、このリストがどれほどの意義のあったものだったかと想像させます。聖書には、このように「人名の羅列」をしている箇所があり、読み飛ばしたくなりますが、立ち止って一人一人の名前の家族や、気持ちに思いを巡らしてみるようにすると、親しみさえ湧いてくることがあります。

 ここに記されている111名の人々は、外国の女をめとった人々すべてなのか、それとも悔い改めて離別した人々なのか、理解が分れます。もしも妻や子を離別した人々だとしたら、一人一人の名前にはそれぞれのドラマがあり、神に従うことを選ぶのに伴う戦い、別離の悲しみがあったのです。

 それにしても、祭司やレビ人などのいわゆる「聖職者」と呼ばれる人々の中にもそのような者たちがいたということは、エズラがなぜ大きな嘆きをもって神の前に自分たちの罪を悔い改めたのかのわけが浮かび上がってきます。2月にイスラエルを訪ねた時に、イスラエルの民がこれだけの長い間民族としての独自性を失わないできたことについて、一方で、周囲の慣習の中に同化して民族としての姿をなくしてしまった人々がいたことを、ガイドの方が説明していたのを思い出します。

 信仰者が何を信じ、どのように歩むのかという標を失うことのないようにとのメッセージを、エズラ記の終わりの部分は伝えているように思えます。

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あれもこれも…ではない

2017年05月12日 | エズラ記

エズラ記 10章1—17節

 エズラの悔い改めの祈りは、イスラエルの大集団の涙へと広がっていきました。もちろん、エズラはそのような結果を意図して神の前で祈ったのではありません。人目をはばかることなく、私たちは罪を犯しました。だれひとりとして御前に立つことはできないと祈ったのです。

 そして、エズラの祈りは大集団の罪の告白へと広がりを見せただけではありません。罪の告白は悔い改めへと通じます。「私たちは罪を犯しました」と涙を流して告白しながら、「これからも同じことをします」とは言えないでしょう。

 シェカヌヤはエズラに具体的な行動を促します。シェカヌヤのことばから見ると、エズラはこの時、立ち上がれないほどの衝撃の中にあったということがわかります。

 シェカヌヤの提案は外国の女と結婚した者は、妻と子どもたちを追い出すようにというものでした。これは当時も、そして今はなおさら、非人情的なことだとして納得がいかないことだと考えられます。「そこまでしなくてもよいのでは…」と思うのです。「みことばの光」にも「エズラの命令は厳しいだろうか」との問いかけがあります。厳しいと思います。

 けれども、イスラエルはこの時、このようにしなければ神の民として存続できないところまで来ていた、民族としての大きな危機の中にあったのです。シェカヌヤの「今なお望みがあります」とのことばは、もしも厳しい処置を断行できるのだったのならば、望みがあるという意味なのでしょう。

 「あれもこれも…」ではなくて、「あれかこれか…」という時があるのです。

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気を取り戻し、祈る

2017年05月11日 | エズラ記

エズラ記 9章

 スキーシーズンには賑わいを見せる場所に行き、スライダー(というのでしょうか)を楽しんできました。リフトで上まで登り、そりのようなスライダーでコースの上を一気に下降。レバーを前に押せばスピードが出て、手前に引けばブレーキがかかります。二人で来ても乗らないでしょうが、孫たちといっしょなので何度も上ったり下ったりを繰り返しました。

 私たちの毎日も「上ったり下ったり」ですね。「イスラエルの民が異邦の民と縁を結んで、神の聖なる民としての歩みをしていないとの話を聞いたエズラは、立ち上がれないほどの衝撃を受け、「色を失ってじっと座って」いました。けれども、この出来事の大きな転換点は、「気を取り直し、…私の主に向かって手を差し伸ばし、祈った」ということにあります。

 何かのことでひどく落ち込んでしばらくは何もできなくなった時、気を取り直して何をするだろうか、と考えます。気を取り直して旅行にでも行く、気を取り直して買い物をする、気を取り直して美味しいものを食べる…、いろいろすることがあるかもしれません。はたして、気を取り直して神に祈るだろうかと心に問うてみるのはいかがでしょうか。

 エズラの祈りにも心がひかれます。「みことばの光」が書くように、エズラ自身はそのような罪を犯してはいません。むしろ、そのようなことを決してしてはならないと人々に教える立場にありました。「誰かのせいにしても」とがめられることはなかったのです。けれども、彼は自分のこととして罪を告白します。神を恐れるリーダーの姿勢がここにあります。

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寝ずの番

2017年05月10日 | エズラ記

エズラ記 8章21−36節

 ブロッケン山という名前の山頂まで上るハルツ狭軌鉄道に乗ることができました。「狭軌」といえば、日本では線路幅が760㎜(ナローゲージと言います)のことを言いますが、ここは線路幅が1000㎜(1メートル)ですから、日本の多くの鉄道の幅とそれほど変わりありません。ちなみに、新幹線やドイツ国鉄の線路幅は1435㎜です。オッと、「鉄」の世界に入ってしまいました。来独している孫たちもいっしょでしたが、一番興奮していたのは、私だったかもしれません。

 エズラたちが出発地近くのアハワのほとりで断食したのは、エルサレムへの旅の無事を神に祈り求めるためでした。アルタシャスタ王がエズラがエルサレムでしようとしていることを全面的に応援しようとしているのですから、ペルシヤの軍隊に自分たちの旅の護衛を願えば、何の問題もなく受け入れられたことでしょう。しかし、エズラは自分たちで長旅をしようと心に決めていたようでした。

 これを読んで、「あるある」と思いました。誰かに頼めばきっと喜んで助けてくれるだろう、しかし、普段から神が自分たちを守ってくださると話しているのだから、頼まずに神に信頼しようというようなことを、信仰者は体験しているのではないでしょうか。

 エズラは、旅の中で祭司長たちに寝ずの番をするよう指示しました。「寝ずの番」といったら、詩篇121篇を思い起こします。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121篇4節)

 この詩篇がエズラの時代の前にあったのだとしたら、エズラの心の中には、「まどろむこともなく、眠ることもない」ということばがあったのかもしれません。

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指名された者

2017年05月09日 | エズラ記

エズラ記 8章1—20節

 自宅から北に300キロほどの山の中にいます。途中の休憩も含めて、自動車で4時間ほどで目的地まで着きました。人間の体力を越えた距離を、今は自動車や列車、さらに飛行機が連れて行ってくれます。そのように考えてみますと、エズラたちのエルサレムへの旅は、どのようなものだったのかと想像してしまいます。

 エズラの呼びかけに答えた人々は男だけで1500人近くにも上ります。ここにもエズラと共に旅する諸族とその代表者の名前が並びます。いつも思うのは、このリストは私たちにはピンとこないもので、読み飛ばしてしまいたいものですが、かかわりの合った人々にとっては、名前が読み上げられた時にはどよめきが起こったのではないでしょうか。

 彼らの旅は目的を持ったもの。旅の途中を楽しむ、などというものではありません。着いてからなすべきことが待っているのです。アルタシャスタ王によって必要は備えられているとはいえ、決して楽な旅ではなかったはずです。

 エルサレムでエズラがなそうとしていたのは、7章10節に記されています。エズラは、それを成し遂げるためにレビ人が必要だと思ったのです。バビロンには神の宮がなかったので、宮での働きを担っていたレビ人は捕囚の間にほかのことをするようになっていたように思われます。しかし、エズラの呼びかけに答えて200名以上のレビ人が集まって来たのです。

 「指名された者であった」とのことばに目が留まります。神に仕える者は「指名された者」なのだということなのですね。自分が手を上げて教会でのいろいろなことをしているというのがほとんどだと思います。けれども、主がその人を指名し、その指名に答えて手を上げたと考えてみるのは大切なことですね。

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