みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

得であったすべてのものを…

2018年06月30日 | ヨシュア記

ヨシュア記 18章

 6月はきょうで終わり。一年の半分が過ぎたことになります。半年を振り返っていかがでしたか。

 18、19章は、イスラエル七部族への相続地の割り当てが記されています。七部族とは、くじが当たった順に、ベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシュル、ナフタリ、ダンです。そのうちきょうの箇所には、ベニヤミン族の相続地の境界線が記されます。

 ベニヤミンはヤコブの12人の子どもたちのうち、ヨセフに次いでラケルが産んだ二人目の子どもです。その子孫がベニヤミン部族。「みことばの光」が書くように、この部族は士師の時代に存亡の危機に瀕します。イスラエル初代の王サウルはベニヤミン族の出、後に使徒としてイエス・キリストの十字架のことばを伝え歩いたパウロも同族出身です。彼が自分のことを次のように紹介しているのは印象的です。

 「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、…」ピリピ人への手紙3章5節

 パウロに限らず、人は自分がどこの国に生まれ、どこの地方の出身で、だれの家に育ったかということに誇りを抱き、反対に恥ずかしさを覚えるかもしれません。けれども、パウロは自分の出自を述べた後で、「私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました」と続けるのです。⇒ピリピ3章7節

 だれでもキリストにあるなら、その人は信仰によるアブラハムの子どもだと語る聖書のことばを思いました。

 関東甲信越地方は梅雨明けと聞きました。ご無理なさいませんように。

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持っていても、強くても

2018年06月29日 | ヨシュア記

ヨシュア記 17章

 本章には、ヨセフ族の中のマナセ部族にヨルダン川西側の地が割り当てられたことが書かれています。すでに、マナセ部族のうちのマキルの子どもたちはヨルダン川の東側に相続地を得ています。

 マナセ部族の相続地の中にも、よく知られた地名が登場します。シェケム、ベテ・シェアン、ドル、メギドなどです。またイズレエルはマナセとイッサカルの相続地の間にあります。ですから北部にはイズレエルの平原が広がる交通の要所なのですが、相続地の多くは山地、森林地帯なのです。しかも、平地のカナン人は鉄の戦車を持っているゆえに、彼らは平地に広がることができません。鉄の戦車を持っていると聞いただけで彼らは縮み上がってしまったのです。

 そこで、ヨシュアに他の部族への相続地を分けてほしいと願い出ます。しかしヨシュアは彼らの願いを聞きません。確かに相続地が一つだけではいけない、だからといって他の部族に割り当てられた地を分けることはできない、あなたがたで切り開くようにと促すのです。

 ここでは、18節のヨシュアの「カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても…」ということばに心を留めました。イスラエルの各部族への割り当てはヨシュアの務めでしたが、元々は神の命令によるもの。神は彼らに相続地を与えると約束しておられたのです。ですから、ヨシュアがヨセフ族に答えたように、彼らは神を信じて困難に立ち向かっていくべきなのです。しかし、彼らは神のことばではなくて自分たちの目で見ていることを信じているのです。

 ヨセフ族に限らず、イスラエル各部族への相続地の割り当ての記事で度々出てくるのは、そこに先に住むカナン人たちを「追い払うことはなかった」ということばです。相続地を割り当ててはもらったけれども、先住カナン人と一緒に住むことになったというのです。それがやがて大きな問題になっていきます。

 神のことば、神の約束を信じて歩むとはどのようなことなのでしょうか。

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ベテル、シロ

2018年06月28日 | ヨシュア記

ヨシュア記 16章

 サッカーワールドカップ、なんと! ドイツが予選で敗退してしまいました。「きっとドイツが勝つ」と思って試合を観なかったのですが、近所で大きな声が挙がったので、勝ったのかと思って観たら、何と0−2の負け。大声は嘆きの声だったのです。韓国は一矢報いましたね。

 本章には、ヨセフ部族への相続地の境界線が記されています。1-4節にはヨセフの二人の子どもたちの子孫、マナセ族の半分とエフライム族への相続地の全体が、そして5節以降にはエフライム部族への相続地の境界線が書いてあります。

 聖書巻末の地図で確認しますと、エフライム部族の相続地の中には、ベテル、アイ、シロという比較的よく知られた地名が出ています。「みことばの光」が書くように、かつてヤコブが兄のエサウの怒りから逃れるために、伯父の住むハランに行く途中で、天からの梯子の夢を見、「ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ」と言い、「神の家」という意味のベテルと呼ぶようになった場所です。⇒創世記28章10−22節 

 この時から20年以上経った時、神はヤコブにベテルに上り、祭壇を築くようにとお命じになります。そして、神はそこでヤコブにイスラエルという名をお与えになるのです。⇒創世記35章1−15節

 ベテルは、ヤコブの祖父に当たるアブラハムゆかりの場所でもあります。彼がハランからカナンへと旅をし、最初の天幕を張ったのはベテルとアイとの間の場所でした。

 エフライム族の人々は、自分たちの相続地にベテルが含まれていると知った時に、父祖たちの姿を思ったことでしょう。そして、自分たちの父祖のヨセフがエジプトに売り飛ばされながらも、結果としてイスラエルの民を守り救うことになったこと、そのエジプトから自分たちの父たちが神の守りの中で出て、荒野の旅を続けたことなどを思い起こしたのではないでしょうか。

 そして、私が神と会うことになった場所と時を思い起こしています。

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ギロ、エン・ゲディ

2018年06月27日 | ヨシュア記

ヨシュア記 15章48−63節

 この箇所には、ユダ部族への相続地のうち「ユダの山地」と「ユダの荒野」の町々が、そしてエルサレムについての記述があります。

 きょうの「みことばの光」は、ヘブロン、デビルについて書いていますので、ここではユダの山地のうちのギロ、荒野のうちのエン・ゲディについて、聖書のほかの記述に照らしてみます。

 ギロはヘブロンの北およそ11キロにあり、ダビデ王の時代にアヒトフェルというギロ人の議官がダビデに仕えていました。アヒトフェルは大変に知恵に秀でた人物でした。父ダビデに謀反を企てたアブサロムはアヒトフェルを自分のほうに引き寄せます。エルサレムから逃げるダビデはアヒトフェルがアブサロムの側にいると知らされるとすぐに、「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と祈るほどでした。⇒サムエル記第二15章31節

 さらに聖書は、「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった」とも書いています。⇒同16章23節 しかし彼は、自分の助言がアブサロムに採用されなかったことゆえに、自分でいのちを絶つという悲惨な生涯の終わり方をします。⇒同17章23節 

 ユダの荒野にあったエン・ゲディは、ダビデがサウル王に追われている時に逃げた場所です。⇒サムエル記第一23章29節、24章1節 この時、ダビデはサウル王のいのちを奪う機会を得ましたが、主に油注がれた自分の主君に対してそのようなことはできないとして、こっそりとサウル王の上着の裾を切り取ったという話があります。

 この箇所には、たくさんの町の名前がずらっと並びますが、それぞれの所には人が住み家族が営まれ、喜びや悲しみが日々繰り返され、歴史を変えるほどのドラマのような出来事もあったと考えると、興味が湧いてきます。

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ベエル・シェバ

2018年06月26日 | ヨシュア記

ヨシュア記 15章20−47節

 ヨルダン川の西側に相続地を割り当てられた最初はユダ部族。15章全体がユダへの割り当てが記されていて、きょうの箇所には、割当地の中にある町々の名前が記されています。ここにはたくさんの地名が連ねられていますが、聞いたことのある町を発見したでしょうか。「みことばの光」は、その中のベエル・シェバとラキシュについて説明しています。

 「ダンからベエル・シェバ」ということばは、イスラエルの北の端と南の端の町を並べて、「イスラエル全地」として用いられています。ベエル・シェバは、聖書のどこに登場するのかを記してみましょう。地図でも確認してください。

・創世記21章31−33節には、アブラハムがここに井戸を掘り、アビメレクと契約を結んだ場所だとあり、それゆえにここはベエル・シェバ(「誓いの井戸」の意味)と呼ばれたと書いてあります。ちなみに、アブラハムはアビメレクとの契約の証しに、それとともに主との契約の証しとしてそこに1本の木を植えました。「それは何でしょう?」というのが、最初にベエル・シェバを訪れたときに出されたガイドさんからのクイズでした。これまでの新改訳聖書では「柳の木」と訳されていましたが、新しい聖書では「タマリスク」(別訳として「ぎょりゅう」)と訳されています。

・ベエル・シェバには、アブラハムの子イサクも住みました(創世記26章)。さらに、イサクの子ヤコブはここで兄のエサウをだまして祝福を横取りし、ハランへと逃れて行きました。後に、イゼベルに脅された預言者エリヤは、ベエル・シェバで主からパン菓子と水とをいただいて休息を取り、ここからさらに南にある神の山ホレブへと旅をしました(列王記第一 19章)。 

 地名が連ねられていて、読むのに忍耐がいるのがこのあたりの箇所ですが、おぼえのある地名をたぐり寄せて聖書を開くと、地名に親しみを覚えるのではないでしょうか。

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