みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

悪事に凝る人とは…?

2019年05月31日 | 詩篇

詩篇 64篇

 祝日の昨日は、当地から西にある町を訪ねました。お住まいの裏には森が…。

 敵の脅(おびや)かしにさらされていたダビデは、神に「私の声を聞き」「私のいのちを守り」「私をかくまってください」と祈り求めています。きょうは「みことばの光」と同じタイトルをつけました。やはり、5節の「彼らは悪事に凝っています」ということばに目が留まったからです。

 悪事に凝る人々はひそかに不正を企み、うまく行ったとほくそ笑んでいます。「人の内なる思いと心とは 底が知れません」ということばも心に突き刺さります。数日前、スクールバスを待っている子どもたちが襲われるという悲惨な事件が起こりました。「みことばの光」を発行する聖書同盟の事務所のすぐ近くでおこったので、他人事ではありません。メディアは犯罪者の家庭環境や生い立ちなどを報じて、「なぜこのようなことが…」と報じますが、本篇に描かれる人間の深い闇を直視すること抜きには、原因を突き止めることができません。

 うそも偽りも、傷害、殺人も、悪と言われるすべては、周囲のせいにして正当化できるものではなく、私が悪を謀る者だから、私たちが悪を謀る者だから、悪事に凝る者だから起こるのだと認めて初めて、本当の解決への道をたどることができるのです。いつの間にか教会は、周りの空気に呑み込まれて人間の罪をはっきりと伝え、神が正しくさばかれるということを語るのを躊躇するようになっているのではないのかと恐れます。

 主にあって喜ぶ正しい人とは、罪に嘆き悲しむという暗闇の中で、イエスの十字架による救いを信じて受け取った者だということを忘れてはならないのです。


ユダの荒野で

2019年05月30日 | 詩篇

詩篇 63篇

 きょうはドイツ全州が「キリスト昇天日」で祝日です。この10日後の6月9日「聖霊降臨日」、10日が「聖霊降臨月曜日」で祝日になっています。

 詩篇63篇は、「ダビデがユダの荒野にいたときに」というタイトルが心に留まります。昨日まで「みことばの光」で読んできた「サムエル記第一」の21章以下に書かれているダビデの逃亡を思いつつ本篇を読むようにとのことです。

 ダビデはユダの荒野にいました。好き好んでここにいたのではなくて、サウルから逃げていたのです。彼が歌うように、荒野は「水のない 衰え果てた乾いた地」です。そしてダビデはそこで不安定な日々を送らなければならずに、彼のたましいは乾いていました。「あなたに渇き」ということばからは、何もない荒野にあって神との結びつきをしきりに求めるダビデのたましいの渇きが伝わってきます。

 ダビデを慕って人々も同行していましたが、かといってダビデにはだれも相談相手になってくれる人はいなかったことでしょう。彼はそこで神を切にあえぎ求めたのです。神の力と栄光を見せてほしいという心からの叫びが伝わってきます。

 荒野には神への礼拝をするための祭壇も聖所もありません。けれども、どこにいてもそこから神をあえぎ求めるのであれば、そこが神の聖所、神にお目にかかる場所になるというのは、すばらしいことです。窮状にあって彼は神をほめたたえます。神への賛美を絶やすなとの強い促しをおぼえます。


王として死す

2019年05月29日 | サムエル記第一

サムエル記第一 31章

 サムエルの誕生に始まったサムエル記第一は、サウルの死で終わります。最後の章にはサウルと息子たちがギルボア山の戦いに敗れて殺されることが書かれています。しかしここには、神のことばを聞こうとしないサウルではなくて、イスラエルの王として、勇士としての誇りを失わずに最期を迎えるサウルの姿が淡々と描かれています。

 前の日にサウルは、この日のペリシテ軍との戦いでいのちを落とすことを知りました。次の日に戦いでいのちを失うと聞かされたら、ある者はそのような危機を回避するために、夜陰(やいん)に紛れて遠くに逃げるかもしれません。けれども彼は立ち向かっていきました。攻撃はサウルに集中したとも書かれます。王を倒せば戦いは終わり。しかし彼は、聖書の後に出てくるだれかのように王であるのを知られないように変装などしません。王であるためにだけでなく、武将であったので攻撃は集中したのです。

 さらに、サウルは「あの無割礼の者たちやって来て…私をなぶり者に」しないために、自らでいのちを絶ちます。サウルだけでなく、ヨナタンもダビデも、ペリシテ人を「無割礼の者たち」と呼びました。サウルのイスラエルの王としての誇りのようなものをここからも見ることができます。

 サウルと息子たちの死体をヨルダン川の東のヤベシュ・ギルアデの人々が丁寧に葬って七日間断食したという描写からも、サウルへの彼らの思いが伝わってきます。サウルは最初の戦いでヤベシュ・ギルアデをアンモン人の手から救い出し、それを機にサウルは王として立てられたのです。ヤベシュ・ギルアデの人々はサウルが自分たちがしてくれたことを忘れることなく、最後までイスラエルの王として遇し葬ったと言えます。

 それとともに、イスラエルの王になくてならないあり方とは何なのかを、改めてサウルの死の記事を読みつつ覚えるのです。


しかし、主によって奮い立った

2019年05月28日 | サムエル記第一

サムエル記第一 30章

 薔薇の美しい頃です。近所を歩くと庭先に色とりどりの薔薇が…。道路沿いには野薔薇が植えられているので、今は周り中に薔薇が見えます。

 ツィケラグは、元々はユダ部族への割当地でしたが後(のち)にはペリシテの支配下になり、さらにペリシテのガテの王アキシュがダビデに与えた町です。ダビデはペリシテの諸王の猛反対でイスラエルとの戦いにペリシテ側として出陣することを免れ、この町に戻って来ました。

 ところがアマレク人に襲われて、町は焼き払われ、ダビデの妻をはじめ女たちや子どもたちが連れ去られてしまったのです。この時にダビデがどのようであったかは6節に明らかです。

 「ダビデは大変な苦境に立たされた」ということばが心に留まります。この時ダビデは、自分の妻たちが連れ去られたということだけでなく、自分について来てくれた兵たちにいのちを取られるかもしれないという危機の中にいたのです。兵士たちはこれまで、ダビデを信頼してついて来ました。家族も一緒に…。けれども家族が連れ去られたこの時に持って行きようのない悲しみと怒りを、ダビデにぶつけたのです。

 踏ん張りどころの彼は、同じ6節の後半のことばによると、「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った」のです。ダビデは神に聞いてペリシテに逃れたのではありませんでした。ダビデがアキシュの元にいたときも、嘘を重ねてきました。この間ダビデが神に聞いたということも神がダビデにお語りになったということも、聖書は記しません。神は黙っておられたのです。

 ダビデは安堵しながらツィケラグに戻ったのではないかと想像します。けれども神は、ダビデにツィケラグで試練を用意しておられました。それは、彼が再び神との結びつきを生きたものにするための試練だったと思うのです。

 ダビデは、大変な苦境の中で神とのつながりを回復することが許されました。じつはダビデにとっての大変な苦境とは、神との結びつきを欠いていたことなのだ、と思わされます。


回避

2019年05月27日 | サムエル記第一

サムエル記第一 29章

 ある青年が着ていたTシャツです。有名なケチャップのラベルがこんなふうになるのですね。

 ガテの王アキシュとともに、イスラエルとの戦いに出て行かなければならないという事態に直面したダビデ。「さあ!」と言う時にダビデに救いの手が差し伸べられました。ペリシテのほかの領主たちがダビデを戦いに連れて行くことに強硬に反対したのです。ダビデが策を講じたのではないところに、神がなさったという思いがします。

 ダビデは、サウルから逃れるために自分の身をガテの王ラキシュに預けようとした時、神に祈り求めたとは聖書は書いていません。おそれゆえに自分で判断したことだったのでしょう。だから、ラキシュが一緒にイスラエルとの戦いに行ってほしいと促した時には、はっきりしないことばで答えたのです(28章2節)。

 ここには、ダビデは神に願い求めたということもありませんし、神がダビデに語られたということも書かれていません。ラキシュと一緒にイスラエルと戦っているペリシテの領主たちがダビデを危険視したことがきっかけです。それとともに、ここには見えない神のみわざが隠されているのもよくわかります。

 沈黙しておられると思うような時にも、神は人を用いて、ご自分の側にいない人をさえ用いて、神の子どもを守ってくださるのだということをここから教えられます。


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