みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

このことを…示したのは

2014年06月30日 | マタイの福音書
マタイの福音書16章13-28節

 日曜日の午後、教会の役員会の最中にものすごい雨が。先週火曜日に、調布市や三鷹市にたくさんの雹(ひょう)が降ったりと、今まででは考えられない、怖くなるほど「派手な天候」です。

 「あなたは、生ける神の御子キリストです」とのペテロのことばは、13章54節からの主イエスの教えと奇蹟を聞いたり見たいした人々の様々な反応の集大成とも言えるものです。主イエスは、このように答えたペテロに「あなたは幸いです」とおっしゃいました。

 「みことばの光」が書くように、人生においてもっとも大切な問いとは、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という主イエスからの問いかけであり、どう答えるかがいのちと死を分けるのです。

 心にとめたのは、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」との主のことば。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリント12章3節)とのことばを覚えました。Dsc04904

 「あなたは幸い」だと言われたペテロは、このあと「下がれ。サタン」と主から厳しくいさめられます。「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」は、天の父によらない発想によるものだったのでは、と考えさせられます。

 写真はピリポ・カイザリヤ。


覚えている

2014年06月28日 | マタイの福音書
マタイの福音書15章29-39節

 今朝の一コマ。Img_2004カンナ、妻が大好きな花だそうです。

 きのうの夕食はキーマカレーとナン。娘がナンを作っていると、1歳9ヶ月の孫(ナン作りの娘の姪っ子)がお手伝い。といっても半分以上は邪魔をするような感じになってしまうのですが…。

 ナンの生地を触っては孫が、「パンの赤ちゃん、パンの赤ちゃん!」と声をかけています。しばらく前に、いっしょにナンを作ったときに「これはパンの赤ちゃんだよ」と教わっていたことを、覚えていたのです。これって、すごいこと! 天才じゃないだろうかと、いつもの「ジジばか」。

 異邦人の地でのイエスの奇蹟。今度は男だけで四千人もの人への給食でした。
 「かわいそうに」とおっしゃるイエスのことばを受けて、弟子たちは「こんなへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、…」と答えます。少し前に、もっと大勢の人々にイエスがパンと魚を分けるという奇蹟を目撃し、自分たちも実際にパンと魚を分ける務めをしたのに、この時彼らは、「待ってました、イエスさま!」「あなたの出番です。私たちはお手伝いをしますから…」と目を輝かせて答えるようなことはなかったのです。

 「あの時」のことを覚えていなかったのでしょうか。
 覚えていたけれども、あの時と今とが結びつかなかったのかもしれません。それは自分たちも同じ。あれとこれは別、あの人と私は別、ということばを用意して、信仰によって働く希望や、豊かな発想を閉ざすようなことをいつの間にかしてしまっているのでは…、と考えさせられます。
   


しかし

2014年06月27日 | マタイの福音書
マタイの福音書15章21-28節


 机上にコーヒーをこぼしてしまい拭き取りましたが、香りが残っています。愛用のマウスも被害に。でも、なんとか動いてくれています、今のところは…。

 主イエスと弟子たちが異邦人の地、ツロとシドンに立ち退かれたのは、伝道のためではなかったことが、この後のカナン人の女性とのやりとりから見て取れます。休息に行かれたのではというのが多くの見方のようです。

 待ち構えていたのが、この女性。
 「イエスさまならこんな態度を取らないはず」とか「こんなことを言ってしまって」などと、読む者がハラハラするような対応をされても、彼女は引き下がりません。「そっ、そうですよね。心得違いをしておりました」などと言い、納得して主のところから去ろうとはしなかったのです。

 女性と主とのやりとりで心に留めたのは、対話の中に見られる「しかし」ということば。新改訳聖書では23、24、25,27節に登場します。26節の「すると」と訳されていることばも、「しかし」と訳されているのと同じもの。女性はイエスのおことばに突っかかっているのではありません。27節を読むと、「主よ。そのとおりです」とうなずきます。けれども、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」となおも食い下がります。私はこのことばが大好きです。

 女性は、主イエスの救いのわざが国籍や文化、民族を超えてすべての人々のためのものであることを、「しかし」ということばを重ねることによって、私たちに見せてくれたのだと思います。
   


みことばを聞いて

2014年06月26日 | マタイの福音書
マタイの福音書15章1-20節


 この箇所で主イエスは、三種類の人々に教えておられます。

 まず、(中央からやって来た)律法学者やパリサイ人たちです。なぜ長老たちの言い伝えを犯すのかと非難する彼らに、主は逆になぜ自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのかと反問し、偽善者であると批判します。
 次は群衆です。パリサイ人や律法学者が提起した疑問については、主は群衆を呼び寄せて何が人を汚すのかを教えられました。口から入る物は人を汚さず、口から出るものが人を汚すのだと…。群衆はさて、イエスが言われたことを理解できたのでしょうか。
 そして弟子たちです。群衆に教えたことの意味を、主は彼らにお話しになったのです。

 心に留めたのは、弟子たちがイエスに話したことば。
 「…みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」

 パリサイ人はイエスのことばに怒りました。「偽善者たち」と言われるのですから、腹を立てないはずはありません。考えてみますと、「偽善者よ」とだれかから言われたらムッとくるでしょうし、逆に一言に三言ぐらい返してやりたくなります。

 主イエスのことばには、私たちの心を逆なでするものが少なくないのではないでしょうか。けれども私たちは、主のことばを聞いて「よい教え」と感動し、うなずきます。ほんとうは間違っている自分の心を矯正しようとする真理なのに、どこか他人事のようにして聞いているから、すばらしい! とうなずけているのかもしれません。

 だからある意味で、「みことばを聞いて、腹を立てる」のは必要なこと。罪を悔い改めるという、次に進めるのならば…。
     


最高の指導者の下での訓練

2014年06月25日 | マタイの福音書
マタイの福音書14章22-36節


 朝刊に、井村雅代さんがシンクロナイズドスイミング日本チームのコーチに10年ぶりに復活、という記事が載っていました。実績のある方なので期待がかかります。サッカー日本代表は残念ながら予選敗退。指導者の責任云々が取り沙汰され、次の指導者はだれか? などという記事が早くも出ています。

 短時間の間に、イエスの弟子たちはいまだかつてなかったようなことを立て続けに経験します。夕方にはわずか5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5000人ほどの人々を主イエスが満腹にするのを目の当たりし、それから半日も経たないうちに、今度は主イエスが風で波立つ湖の上を歩く姿を見、ペテロが水の上を歩きながらもおぼれかかる様子を見、たちまちのうちに風が止んだ場に居合わせたのです。

 弟子たちの口から「確かにあなたは神の子です」ということばが出てくるのは、「やった!」「見られてよかった!」などということは全く違う、圧倒的な出来事を見聞きし、驚きを超えた恐れや震えのようなものを彼らが覚えたからではないか、と想像してしまいます。

 考えてみれば、弟子たちも私たちも、最高の指導者に恵まれているのです。
 思いもよらないとパニックに陥りそうなことも、このお方による訓練だと受け止めれば、そしてこのお方の声を聞いて従っていれば何とかなるのでは、と希望を抱かせてもくれる箇所です。
    


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