みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

その日

2020年03月23日 | マラキ書

マラキ書 4章

 日曜日の夕方、ドイツ連邦政府のメルケル首相が、ドイツ全州で家族を除いて二人以上の集まりを禁止するという規制が月曜日から発動されると話しました。一緒に集まることを旨とする教会においては厳しい規制です。日曜日の礼拝は自宅からネットよって配信されました。そのために近所に住む奏楽者が来てくださったのですが、次の日曜日にはそれもできなくなります。

 4章1節には『その日」が繰り返されており、高ぶる者や悪を行う者にとってはさばきの日、しかし、次の2節には「わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る」日だと言われています。

 旧約聖書の終りにあるマラキ書は、「その日が来る」ことについての預言です。「その日」とは3章1節によれば、主がおいでになる日のことです。神の約束を待つことに飽いてしまい、悪に走る祭司や民に、神はその日は必ず、突然やって来るのだということばを残して、ほぼ400年以上の沈黙に入ります。そして、時が満ちてこの約束どおりにイエス・キリストがおいでになりました。

 新約聖書の終りにあるヨハネの黙示録には、その最後にイエス・キリストの約束のことばがあります。それは、「しかり、わたしはすぐに来る」ということばです。神が約束されたことばは必ずそのとおりになる、『その日』は必ず来るのだという信仰を、マラキの時代の民も、そして私たちも、持つようにと促されています。


「これはこれ、それはそれ」ではない

2020年03月21日 | マラキ書

マラキ書 2章

 一部の州、都市では外出禁止が発令された場所も出てきました。全州で外出禁止になる可能性が高いと言われている昨日、近くの公園ではいつもよりも人は少なめですが、それぞれが散歩やランニングを楽しんでいました。中には草原でトランプに興じる人も…。室内よりもよほどいいと思いました。春の花も咲き揃い、程よい気温で本当に良い時期なのですが…。

 2章には神からの厳しいことばが神の宮で仕える祭司たちに投げかけられます。彼らは自分たちに神がお与えになった務めを果たさず、神に栄光を帰すことをしないで、自分の欲のためにこれを行っていたのです。形は神に仕えながら、心は全く違うところにあったという彼らを、神が見過ごしことはありません。

 9節の「えこひいきしながら教えた」とは、どのようなことなのでしょうか。7節によると、祭司とは「万軍の主の使い」として、人々を神のみおしえによって導く者であるはずなのに、逆に多くの者を教えによってつまずかせてしまったのです。それは、神の道を説くべき者が神の道を守ることなく、人の顔色を見て教えたからです。

 10ー16節には、当時の民が家庭生活を軽んじていたことへの神の怒り、嘆きが描かれています。神を礼拝することと、あるべき家庭生活とはつながりがあります。彼らは、『これはこれ、それはそれ」と分けて考えることで思いのままに生きることを肯定していたのでしょう。結婚生活もその一つでした。

 神のことばを自分の意に沿ったものに理解して実は歪めてしまっているということは、マラキの時代も、そして今も少なくありません。そうであれば、「これはこれ、それはそれ」という都合の良さがまかり通るのです。


問いかけ

2020年03月20日 | マラキ書

マラキ書 1章

 聖書を読みにおいでになる方が美味しいお菓子を焼いてきてくださいました。今回は「ラムレーズンサンドビスケット」。北海道帯広の、あの有名なお菓子にも負けないほどの美味しさでした。

「みことばの光」は、きょうから『マラキ書」を読みます。マラキ書は旧約聖書の最後、39番目に置かれている書で、時代的にも旧約時代最後の頃を背景としています。ですから、「みことばの光」の「マラキ書を読む前に」では、「『間(はざま)の時代』へと向けられた預言書」と呼びます。

 初めの章には、神からのことばへの民の問いかけと、民の態度への神の問いかけが並んでいます。本書の最初に神が語られたのは、「わたしはあなたがたを愛している」です。それに対する民の問いかけは冷ややかなものでした。「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」とのことばからは、『あなたが私たちを愛しているとは思えません」と言うニュアンスが伝わってきます。

 そのような民のことばを受けて、今度は神が問いかけます。「どこにわたしへの恐れがあるのか」と。しもべは主人を敬い、子どもは父を敬うのに、あなたがたはわたしを敬っているのかと問うのです。

 しかも、そのような神に、民は「どのようにして、あなたの名を蔑みましたか」と問うています。言うならば『逆ギレ」のようなことばは、民の何を語っているのでしょうか。

 人々は礼拝をし、ささげ物を献げていました。けれども、心が伴わずに形式的、義務的なものでした。心が失われて形だけが残るようなことが教会にはないのだろうかと顧みるとともに、そのようなときでも神は、「あなたがたを愛している」との呼びかけに、私はどう答えるのだろうかと、立ち止まります。


違いがわかる

2015年03月24日 | マラキ書

マラキ書3章13節―4章6節

 「寒の戻り」というのでしょうか。ぶるぶるっと震えて早朝の祈祷会に出かけました。でも、陽射しは春のもの。

 預言者マラキの時代は、念願だった神殿は再建されたのにもかかわらず人々の生活が困窮していたと、「マラキ書を読む前に」(「みことばの光」3月号48、49頁)にあります。「神に仕えるのはむなしいことだ…」という3章14節に見られるつぶやきにも、このような背景があったのでしょう。

 神に信頼しても信頼しなくても違いはないのではないか、いや、神に信頼しないのに良い生活を楽しんでいる人もいるではないか、というような思いが民の間に拡がっていたと考えられます。

 心に留めたのは「そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った」という3章16節のことばです。神を信じて生きるのはあまり意味がないという時代の中で、ほんの一握りの主を恐れる者たちが、主に信頼して互いに語り合ったというのです。もしかしたら彼らは、むなしい、何の益になろうとつぶやいていた人たちの仲間だったかもしれません。しかし今は、向きを変えてつぶやきではないことばを語り合うのです。

 それに主は耳を傾けておられるというのです。励まされます。

 違いなどないのでは…という不信に対して、そうではない、必ず主が正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者の違いを明らかにてくださるさばきの日が来ると預言者は主のことばを伝えています。

 「違いがわかる人」でありたい、と思いました。


どのように

2015年03月23日 | マラキ書

マラキ書2章17節―3章12節

 土曜日、年に一度ずつ持ち回りで開催されているライブがあり、東京三河島の荒川聖泉キリスト教会を訪ねました。教会の皆さまの温かなおもてなしを受け、すばらしい時を過ごしました。今回はこのライブの10周年記念とのことで、Tシャツを作ったのです。とてもおしゃれなデザインです。

 さて、駅に行ってびっくり。皆さんにお知らせした発車時刻の電車がありません。ピンときました。3月14日のダイヤ改正前の時刻表を見て「お知らせ」を出してしまったのです。幸い私たちは5分早い電車に乗ることができたのですが、ある方は間に合わずに次の電車に…。さて、次の電車に乗った方はどのようにしたら間に合うだろうか…。そこで登場したのは、乗り換え案内アプリ。すぐに代替ルートを探し出してくれました。こんなときには便利ですね。

 きょうの箇所には、「どのように」ということばが二回登場します。一度目は2章17節。ここでの「どのように」からは主への不信の空気が伝わってきます。民は神への不信をあからさまにするのです。神が愛ならなぜ…、神がおられるならどのように…と疑問を抱くのです。二度目は3章7節。「わたしのところに帰れ」と招いておられる主に、「どのようにして、私たちは帰ろうか」と民が言うのです。「みことばの光」が解くように、これは「帰りたいけれども帰れない」というのではなくて、神の呼びかけを拒む態度です。

 「わたしはあなたがたを愛している」(1章2節)がマラキ書の主題だと前に書きました。その主題は、神に背きながら「どのように」と疑い、また「どのようにして」と拒む民を忍耐して、帰る道を用意しておられることにも具体的に表されているのですね。


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